八卦の陣とは?三国志で孔明が赤壁の戦い(レッドクリフ)

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八卦の陣とはどんな戦術・戦略なんでしょうか?

映画「レッドクリフ」でも「おぉ。これが、(孔明が発案した)八卦の陣か」というセリフがありましたが八卦の陣とは、どういう陣なんでしょうか

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八卦の陣とは?三国志で孔明が赤壁の戦い(レッドクリフ)

「八卦の陣」とは、「八門金鎖の陣」「八荒の陣」ともいい、休・生・傷・杜・景・死・驚・開の八門からなる陣とされます。

生・景・開門は吉なれど、
傷・休・驚門は痛手を負い、
杜・死門は滅亡する

と言われています。

八卦の陣とは例えば、敵の対して前面の部隊を騎馬部隊にし、後ろの陣地を歩兵で固め八方に対処できるように構築した陣地のことを指します。

この八卦の陣を始めとする~石兵八陣、八門遁甲など、およそ八の字の付くものについては前線の陣地として構築した防御用の砦と理解したほうがいいでしょう。

武田信玄と上杉謙信が戦場で用いた、魚燐の陣(錐行の陣)、鶴翼の陣、車掛りの陣などのように、敵を攻撃するときに用いる組織的に軍を動かすときに用いるものではないということ。

ただ古典に出てくるのは正確には〝諸葛亮の八陣図〟だと思います。

諸葛亮の八陣図というのは、けっこう有名ですが、これが八陣図だというのは残ってないようです。

史書の中ではレッドクリフのような登場は完全にありません。

八卦の陣は以前にもありましたが、孔明が成功させ、歴史的に有名になったものは229年の魏との戦いの時です。

従来の八卦の陣に新たな策と改良を加え、今の世に知れ渡っているみたいです。

参考になるところで、高島先生の「三国志きらめく群像」では、唐の太宗と李靖との問答に出てくる諸葛亮八陣図について次のように言っています。

“大陣が小陣を包み、大営が小営を包み、隅落鉤連し、曲折相対す”

“陣数は九ある。中心の零は大将が掌握し、四面八向、すべてその指揮に従う。

陣の間に陣を容れ、隊の間に隊を容れ、前をもって後ろとなし、後ろをもって前となし、進むに速奔なく、退くに遽走なく、四頭八尾、衝突したところが首になり、敵がその中を衝けば、両頭がこれを救う。数は五に起り、八に終る”

高島先生も神秘的空論としています。

ちなみに、マンガ「三国志」で最初のほうに完福(諸葛孔明の友人である徐庶の偽名)という人が八卦の陣を破っています。

建安12年(207)に新野城外で、魏の曹仁がこの陣を使用していますが劉備軍の軍師徐庶に生・景・開門を見破られて敗退しています。

後の建興7年(229)に、渭水で諸葛亮が「八卦の陣」を披露しています。この時、対戦相手、魏の司馬懿は、生・景・開門を攻めましたが敗退しています。孔明は、古くから伝わる「八卦の陣」に改良を加えていたのだ、とされています。

この八卦の陣を最初に考案したのは、風后(中国伝説上の兵法家)

『風后(?~?)
黄帝の師といい、また黄帝の三公ともいいます。
海隅で黄帝に仕え、相に上りました。
著に『風后兵法』があったとされます。』

もしくは太公望(周の軍師)とされています。
どちらにしても、3~4000年以上前の話です。

■完福
徐庶は単福という偽名を名乗っていたところ、劉備にスカウトされて軍師となり、新野城での曹仁との攻防戦に劉備軍を完勝させるが、曹操に目を付けられて母親の偽手紙に騙されて、代わりとして諸葛亮を推薦し劉備のもとをはなれて曹操に仕える事になるが、これを聞いた母は自殺してしまい、徐庶は曹操には仕えるが曹操のために策を立てることはしないと誓う。
赤壁の戦いにも従軍するが、連環の計に気づきながらもこれを見逃し、曹操に「涼州に対して備えたい」と提言して陣を離れた。

正史では偽名は使わず、最初は徐福という名で徐庶に改名したとされる。
劉備に諸葛亮を推薦した後の戦いで、母が曹操軍に捕らえられたために劉備に別れを告げて曹操の下に赴いた。
この時特に母が自害するような話はない。
元々出世を追及する性格でなかったため、その後は余り出世せずに生涯を終えた。

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