放出の読み方|「はなてん」の由来はなぜ?大阪の難読地名

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放出の読み方「ほうしゅつ」ではない?なぜ「はなてん」なんでしょうか?

大阪には難読地名がなぜ多いんでしょうか?放出が「はなてん」の由来はなぜ?

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放出の読み方|「はなてん」の由来はなぜ?大阪の難読地名

「難読地名が多い」と思う都道府県はどこ? 3つの都道府県を紹介!

 通常とは違う特殊な読み方をしたり、見慣れない漢字を使用したりする「難読地名」。日本には、地元の人でないとピンとこない読み方をする地名がたくさんあります。

 そこで今回は、「『難読地名が多い』と思う都道府県」というテーマについて考えてみましょう。まずは、ねとらぼ編集部がピックアップした3つの都道府県をご紹介します。

https://news.yahoo.co.jp/articles/c1093eb916f7ba28fadfcd96cb7fd60fecd03629

地名で大阪市鶴見区に、放出と書いて「はなてん」と読む地名があります。

関西では『ハナテン中古車センター! あなた、クルマ売る?』っていうテレビCMが昔からやっていました

「放出(ハナテン)」や「中百舌鳥(ナカモズ)」、「土師ノ里(ハジノサト)」などは古墳時代、仁徳天皇が最初に難波(なにわ)に身を置いたと日本書紀に記載されている地域で、歴史的事象に由来した古い地名がそのまま多く残っています。

阿遅速雄(あじはやお)神社の由来によれば、熱田神宮から「天叢雲(あまのむらくも)の剣」を盗んで逃げた新羅の僧を乗せた舟が、暴風雨に遭い難破してこの地に漂着したとき、その剣を「放」り「出」したことによるといわれています。

また、天智天皇7年(668年)に、この地に「牧」をおいて多くの馬を放し飼いにしたことから、この飼育地を放出と呼んだとする説もあります。

さらに、昔は「はなてん」と読まずに、「はなちでん」から「はなちで」と称していました。当地は古代から中世にかけて、河内湖からの湖水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置し、仁徳天皇の頃にも旧大和川の氾濫が多かったことから、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、その名が起こったともいわれています。

中世の戦史によく出てくる「放出の渡し」はこの地にあったとのことです。

■参考:大阪の難読地名
私市:キサイチ
牧方:マキカタ
放出:ハナテン
南京終町:ミナミキョウバテチョウ
杏町:カラモモチョウ
東一口:ヒガシイモアライ
吹田市:スイタシ
平城山:ナラヤマ
祝園:ホウソノ
野江内代:ノエウチンダイ
喜連瓜破:キレウリワリ
立売堀:イタチボリ
粉浜:コハマ
杭全:クマタ

まとめ:放出の読み方|「はなてん」の由来はなぜ?

昔は「はなてん」と読まずに、「はなちでん」から「はなちで」と称していました。当地は古代から中世にかけて、河内湖からの湖水が大和川や寝屋川の流れと合流して淀川(現在の大川)に注ぐあたりに位置し、仁徳天皇の頃にも旧大和川の氾濫が多かったことから、この地に樋を作りその水を調節して水を「放」ち「出」したところから、その名が起こったともいわれています。

弥生時代前期には、今の河内平野が河内湾という大きな入り江になっていて、半島であった上町台地にそって北に砂嘴(さし)(天橋立のような長い砂州)が伸びていて、その先端の現在の南方(南の潟)のところで西の海(大阪湾)に通じていました。河内湾は弥生時代後期には河内湖になり、その残存も、江戸時代の鴻池新田開発で沼が埋め立てられて消滅します。

その河内湾・河内湖の時代に、淀川は枚方(平潟)のあたりで分岐し、その支流が今もある古川ですが、今より太い川だった古川に寝屋川や当時北流していた大和川が合流して、河内湖に水を「放出」するところが「はなてん」の地でした。その河口には川が幾筋にも分かれて三角州を形成し、砂が溜まって水の流れが悪かったので、仁徳天皇のとき、放出の近くに古川の氾濫から守るため「茨田の堤」という堤防が築かれ(参考URL2)、上記引用にように、放出路を掘って水を河内湖に流し込みました。また上町台地のすぐ北の砂嘴にも「堀江」を開削し、それが今の大阪城のすぐ北の天満橋のあたりの大川です。

「はなちで」の弥生時代音は panatinde「パナティンデ」、平安時代には「ファナテンデ」となり、いつしか「デ」が落ちて、江戸時代初期には「ハナテン」となったと考えられます。弥生時代以来の古い地名です。

放出(はなてん)以外の大阪の難読地名の由来

■左専道

延喜元年(901年)菅原道真が太宰府に左遷される途中、現在の諏訪神社で休憩(腰をかけたという腰掛け石が今も残っている)したことから、この付近を「左遷道」と呼んだといわれています。

一説にはそれ以前に左遷道と呼ばれていたと伝えられるが、いずれにせよ左遷という名は有り難くないところから、村人たちが長い年月とともに「左専道」(もっぱらのみち)と改めたともいわれています。

当地は、昔から木綿の耕作地でしたが、木綿が衰えてから蔬菜(そさい)づくりが盛んとなり「させんど青物」の名で知られたところです。

■天王田

寛文7年(1667年)に本庄村(現東成区)から分かれて天皇田と称しました。

後に天王田と改められますが、初め天皇田と称していたのは、当地が用明天皇を祀る鵲森神社(かささぎのもりじんじゃ/中央区森ノ宮中央)の神領であったところからといわれています。

■永田

地名の由来は不明ですが江戸時代からの村名で、永田を含むこの地域が新開荘という四天王寺の荘薗として記録に現れるのは、興国元年(1340年)です。旧大和川・寝屋川などの河口の低湿な沼地を開いた荘園ということから、新開荘と名付けられたものと思われます。

また、室町時代の応仁2年(1468年)に蓮如上人の教えを受けた村人が、この永田の地に蓮乗寺を建てたことが同寺の縁起にも記されています。なお、蓮如上人は、明応5年(1496年)現大阪城のあたりに石山本願寺を造営したことでも有名です。

■三組

 三カ所に点存する地域を組み合わせた新田の地域であることに由来します。この地は、放出町・今津町や東大阪市の森河内・菱屋・稲田などに囲まれた細長い地域でした。

 大正14年(1925年)4月大阪市に編入されるまで榎本村に属していました。

■茨田
 茨田は、「まむた」と読むらしい。倭名類聚抄(わみょうるいじょうしょう)という古代の百科事典には、萬牟多と読みがふってある。播磨風土記には、河内の国茨田郡に枚方の里があったこと、そこに漢人が居住していたことがでてくる。また日本書記には、有名な茨田の堤と茨田の屯倉(みやけ)についての記事があるほか、茨田池に関しても述べるなど、茨田の名が古くからあったことを物語っている。 
 茨田池は人工の池ではなく、自然の滞水によるものであるらしいが、それは現在の寝屋川市南部以南に広がっていたもとの河内湖であった可能性がつよい。そして「まむた」とは、湿地帯をさす言葉であるともいわれているが、こうした観点に立つと、茨田と総称された地域は、のちの茨田郡の範囲を超えて、かなり広大なものであったことが考えられる。
   (地域文化誌「まんだ」より引用)

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