一刻は何分?江戸時代や昔の時間

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一刻とは何分?昔の時間でどれくらい?

一刻とは現代の単位でいうと何分くらいのことでしょうか?

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一刻は何分?江戸時代や昔の時間

一刻とは今で言うと何分くらいのことかというと、明治維新以前の日本では1日を、午前0時が「子」刻、次いで「丑」、「寅」、「卯」、「辰」、「巳」、「午」(正午)、「未」、「申」、「酉」、「戌」、「亥」、と十二支で区分(時刻)しました。従って、1刻は現在の2時間に相当します。ただ、江戸時代は不定時法、すなわち夜明けと日暮れを境として昼と夜をそれぞれ6等分したため、季節により時間(1刻)が変化しました。

平安時代は「定時法」が採用されていたと言われることが多いのですが、「不定時法」であったとも考えられます。

平安時代中期,927年に制定された「延喜式」によると,暦や占い,時刻を司どる役所として陰陽寮を規定しています。

・定時法の場合
一年を通して「一刻」の長さが同じ。
24時間を12等分し、その一つを「一刻」と呼ぶ。
「一刻」は現代の2時間にあたる。

・不定時法の場合
季節によって「一刻」の長さが違う。
日が出る時間、出ていない時間をそれぞれ六等分し、その一つを「一刻」と呼ぶ。
定時法であれば昼が6刻あったり7刻あったりするが、不定時法では常に昼が6刻、夜も6刻。
そのため、夏の昼間は一刻が長くなり、冬の昼間は一刻が短くなる。

約2時間といえば間違いではないのですが、江戸時代の不定時法では、日の出から日没までを6等分、日没から日の出までも6等分して「一刻」と表現します。

ですから、真夏の昼間の「一刻」は、真冬の昼間の「一刻」よりも長いし、夜についてはその逆になります。春分の日と秋分の日については「一刻=2時間」で大丈夫ですが。

■延喜式
宮城の門は朝開き,夜閉じていたが,その時刻に太鼓を打つのが陰陽寮の役目であった.その規定では,時刻制度は定時法であった.また,日の入り,日の出の時刻も同時に掲載されているが,当時は太陰太陽暦を採用しているために,月日で表すことができず,二十四節気で表している.時刻は1日を12分割し,十二支をあて,それを4分割したものが刻,刻を10分割したものが分であった.そして,基準値としては太陽の南中時刻を午の3刻としていたようである.

当時は十二支の時刻を太鼓で,その下の配分である刻を鐘で知らせていた.子と午の時刻は太鼓を9つ,丑と未は8つ,寅と申は7つ,卯と酉は6つ,辰と戌は5つ,巳と亥は4つ太鼓を打ち,その下の刻を鐘でうった.この時刻の太鼓の数が江戸時代の時刻の呼び名の基となった.

まとめ:一刻は何分?江戸時代や昔の時間

「刻(こく)」は日本と中国の各時代によって異なる時間の長さを示します。

たとえば、「一刻」は「昼(夜)の長さの1/6」(2時間前後、時季により異なる)を示す時代・地域もありましたし、「一日の1/48」(30分)を示す時代・地域もありました。

他にも「一日の1/100」(およそ14分半)を示す時代・地域もあるようです。

古代~室町時代までの時法は定時法でした。

『日本書紀』には、斉明天皇6年5月(660年6月)頃に中大兄皇子(天智天皇)が初めて漏刻(水時計)を作り、天智天皇10年4月25日(グレゴリオ暦671年6月10日)に初めて漏刻(水時計)に合わせて時の鐘を打ったという記録があります(6月10日の「時の記念日」はこれにちなみます)。

『延喜式』(延喜5年(905年)?延長5年(927年)にかけて編纂)や『枕草子』(996年頃成立)などにでてくる時法は、1日を十二支を配した12辰刻に等分して、1辰刻をさらに4刻に等分した1日48刻(12辰刻×4刻)の「四八刻法」という定時法が主流だったようです。
●四八刻法
1日=12辰刻=48刻=480分(ぶ)…現代の24時間=1,440分=86,400秒
1辰刻=4刻=40分(ぶ)……………現代の2時間=120分=7,200秒
1刻=10分(ぶ) ……………………現代の30分=1,800秒
1分(ぶ) ……………………………現代の3分=180秒
つまり、当時の「一刻」は現代の30分、「一辰刻」が現代の2時間です。

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