松本城はなぜ烏城?由来・理由は?熊本城や岡山城は?

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松本城はからす城と言われているようですが由来は?

熊本城も外観からからす城と言われているのですか?それとも烏城は松本城だけなのでしょうか。

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松本城はなぜ烏城?由来・理由は?

烏城(からすじょう、うじょう)と呼ばれているのは次の3城です。

岡山城 – うじょうと読む。
松本城 – からすじょうと読む。
黒石陣屋 – うじょうと読む。

熊本城は、別名「銀杏城」と呼ばれています。その名前は、本丸前にある大銀杏に由来します。この銀杏の木は、加藤清正が築城の際に植えたと伝わっています。清正は、この木が天守閣と同じ高さになったときに、何か異変が起こるであろうと予言しました。そして、その予言は、明治10年(1877年)の西南戦争のときに現実となりました。

豊臣家の城は、黒い外壁をしているため「烏城」と呼ばれています。徳川家の城は、白い外壁をしているのが特徴です。熊本城は、白い外壁をしているため、徳川家の城です。

織田・豊臣の時代は、織豊期と呼ばれています。この時代、天守は下見板が使われていました。下見板は、雨がかかる下2/3を崩れにくくするために使われていました。徳川家の天守は、下見板を使わず、白漆喰の総塗籠の「白亜の天守」でした。これは、城郭が戦略上の拠点から領国支配の中核としての性格を強めることになったためです。

熊本城はなぜ烏城?由来・理由は?

熊本城の別名が「銀杏城」と呼ばれる由来の樹があります。

熊本城は別名「銀杏城(ぎんなんじょう)」といい、その名前はこの大銀杏に由来します。

清正(きよまさ)公が築城の際にお手植えになったと伝えられ、また、清正が亡くなるときに、「この銀杏の木が天守閣と同じ高さとなったときに、何か異変が起こるであろう」と予言し、それが奇しくも明治10年(1877年)の西南戦争のときであったとも言われています。

清正は銀杏の実を食料とするために、この木を植えたとよく言われますが、残念ながらこの木は雄の木で実はつけません。

現在の木は西南戦争で燃えたあとに、芽吹いた脇芽が成長したもので、130年でこれだけの大きさに成長したのです。

まとめ:松本城はなぜ烏城?由来・理由は?熊本城や岡山城は?

秀吉は白漆喰の壁部分も黒漆を塗り真っ黒な大坂城を出現させた。これは、天下の富と力を手に入れた秀吉が城飾りとしての金の金具を目立つように、貴族の間で最高の色とされていた「黒」を選んだからといわれている。

松本城は1593年から94年にかけて石川数正・康長父子により築造された秀吉側の城である。

関東の徳川家康を監視する城として築かれた。戦国末期、鉄砲戦に備えた武備が城全体に施されている。

松本城天守は黒漆で塗られた下見板のために黒い色をしている。壁の1/3は白漆喰で2/3が下見板である。織田・豊臣の時代を略して織豊期(しょくほうき)と呼ぶがこの織豊期、1600 年関ヶ原の戦以前に造られた天守には下見板が使われている。当時の建築において白漆喰で壁一面を塗った場合、雨がかかる下2/3は崩れやすかったため、下見板を張り雨をはじく黒漆を塗布した。1583 年に建造が始まり2年後に完成した秀吉の大坂城も下見板張られていた。その上、秀吉は白漆喰の壁部分も黒漆を塗り真っ黒な大坂城を出現させた。これは、天下の富と力を手に入れた秀吉が城飾りとしての金の金具を目立つように、貴族の間で最高の色とされていた「黒」を選んだからといわれている。
松本城の歴史的価値資料より

一方、徳川系の天守は下見板を使わず白漆喰の総塗籠の「白亜の天守」であった。耐水性の劣る総塗籠の天守が造られた理由はその「外観のよさ」からであると考えられている。すなわち、城郭が戦略上の拠点から領国支配の中核としての性格を強めることになったからである。領国支配の象徴として白亜の天守が西国を中心に造られ全国に波及した。

また言われているのは

秀吉の黒い大阪城に対し、白いお城を築城することで、豊臣の時代は終わったと世間に示すため技術的には瓦も風化すると白っぽくなる鉛入りの瓦を使用した。

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