松平昌久wiki|なぜ徳川家康を裏切り?最後は?

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松平昌久はなぜ徳川家康(松平元康)を裏切った?

桶狭間の戦いの後、大高城を退去し撤退する途中で家康を襲撃すると最期まで逆らったようですが2人の関係は?

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松平昌久wiki|なぜ徳川家康を裏切り?最後は?

松平昌久と徳川家康(松平元康)は昌久の曽祖父と家康の6代前が同じ人物だと云われているかなり遠い親戚に当たります。

桶狭間の戦いの後、大高城から撤退途中に松平昌久が徳川家康を襲い寺にこもるエピソードは、地元では有名な伝承として残ってるそうですが史実かというと怪しいようです。

それどころか孫が元康勢として出陣し、討死しています

後に松平昌久は三河一向一揆に与し籠城、その後行方をくらませたとありますが、一揆に直接加わった記録はないようです

一向一揆では家康の家臣団の半分が一揆側について家康を苦しめましたが家康は 一揆軍を認めてその家臣たちの復帰も無条件に認めています。

ただ松平昌久からすれば桶狭間の戦いから敗走する家康を襲った時点でもはや引き返すのは不可能でここで家康を討とうが討たまいが家康との関係修復は不可能だたのでしょう。

まとめ:松平昌久wiki|なぜ徳川家康を裏切り?最後は?

松平昌久の大草松平家は元々岡崎領と岡崎城を領し岡崎松平家と呼ばれていました。

父・信貞(昌安)の代に松平清康に敗れて岡崎を引き渡し、以後従属したそうです。

当時の西三河衆は松平十四家も含んで今川方と織田方に別れ寝返ったりしています。

今川義元の父今川氏親の三河侵攻により松平宗家家岩津松平家が今川方伊勢盛時(北条早雲)に滅ぼされる。

昌久の父昌安が元康の祖父安祥松平家松平清康に敗れて岡崎を引き渡し娘於波留(昌久妹)を清康に嫁がせ大草に隠遁した。

岩津松平家滅亡後、松平宗家の家督争いに桜井松平家松平信定が名乗りを上げ尾張国勝幡織田氏(信長の弾正忠家)と縁を結んだ。

松平清康は勝幡織田氏織田信光の籠る守山城に侵攻するが家臣に殺される(森山崩れ)。

岡崎を占拠した松平信定は松平清康の子広忠(元康の父)を殺害しようとする。

広忠は駿河へ渡って今川義元に保護され、信定死後の桜井松平家の混乱に乗じて今川氏、今川方の三木松平家松平信孝・鵜殿松平家松平康孝の協力を得て岡崎城を占領した。その後、織田信秀が織田方三河勢(松平一門含)支援で三河進攻、広忠は今川氏へ加勢を乞う見返りに竹千代を人質として送ることとなった。しかし家臣の戸田康光の裏切りにより竹千代(元康)は織田方に送られてしまう。

永禄3年(1560年)清康・広忠・元康(家康)の三代に仕えた孫の正親が桶狭間の戦いで48歳で戦死

永禄6年(1563年)三河一向一揆が起きると反家康方に加わって吉良義昭の東条城に籠城した。

ただし大草松平氏は西山浄土宗を宗旨としているため反家康の旗幟は信仰的要因ではなく、一向一揆に直接加わった様子はない。

翌永禄7年(1564年)2月に東条城が落ちると、昌久は行方を晦ませたという

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