大鏡「花山院の出家(退位)」現代語訳

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大鏡『花山院の出家(花山天皇の退位)』の現代語訳について。

「花山院の出家」は歴史物語『大鏡』に収録されている物語の一つ。

17歳で即位した花山天皇が、わずか2年で出家してしまったときの話『花山院の出家(花山天皇の退位)』の現代語訳は?

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大鏡「花山院の出家(退位)」原文

永観二年甲申八月二十八日、位につかせ給ふ、御年十七。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、あさましく候ひしことは、人にも知らせ給はで、みそかに花山寺におはしまして、御出家入道せさせ給へりしこそ、御年十九。世を保たせ給ふこと二年。その後二十二年おはしましき。

あはれなることは、おりおはしましける夜は、藤壺の上の御局の小戸より出でさせ給ひけるに、有明の月のいみじく明かかりければ、「顕証にこそありけれ。いかがすべからむ。」と仰せられけるを、「さりとて、とまらせ給ふべきやう侍らず。神璽、宝剣わたり給ひぬるには。」と粟田殿のさわがし申し給ひけるは、まだ帝出てさせおはしまさざりけるさきに手づからとりて、春宮の御方にわたし奉り給ひてければ、かへり入らせ給はむことはあるまじく思して、しか申させ給ひけるとぞ。

さやけき影を、まばゆく思し召しつるほどに、月の顔に群雲おかかりて、すこし暗がりゆきければ、「わが出家は成就するなり。」と仰せられて、歩み出てさせ給ふほどに、弘徽殿の女御の御文の、日ごろ破り残して御身を放たず御覧じけるを思し召し出でて、「しばし。」とて、取りに入りおはしましけるほどぞかし、粟田殿の「いかにかくは思し召しならせおはしましぬるぞ。ただ今過ぎば、おのづから障りも出でまうできなむ。」とそら泣きし給いけるは。

花山寺におはしまし着きて、御髪おろさせ給ひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、大臣にも、変はらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならず参り侍らむ。」と申し給ひければ、「朕をば謀るなりけり。」とてこそ泣かせ給ひけれ。あはれにかなしきことなりな。日ごろよく、御弟子にて候はむと契りて、すかし申し給ひけむがおそろしさよ。東三条殿は、もしさることやし給ふと、あやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふいみじき源氏の武者たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどは隠れて、堤の辺よりぞうち出て参りける。寺などにては、もしおして人などやなし奉るとて、一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞ守り申しける。

さて、土御門より東ざまに率て出だし参らせ給ふに、晴明が家の前を渡らせ給へば、みづからの声にて、手をおびただしく、はたはたと打ちて、「帝王おりさせ 給ふと見ゆるは。天変ありつるが、すでになりにけりと見ゆるかな。参りて奏せむ。車に装束疾うせよ。」と言ふ声聞かせ給ひけむ、さりともあはれには思し召 しけむかし。「かつ、式神一人内裏に参れ。」と申しければ、目には見えぬものの、戸を押し開けて、御後をや見参らせけむ、「ただ今、これより過ぎさせおは します。」といらへけりとかや。その家、土御門町口なれば、御道なりけり。

花山寺におはしましつきて、御髪おろさせたまひて後にぞ、粟田殿は、「まかり出でて、おとどにも、かはらぬ姿、いま一度見え、かくと案内申して、かならずまゐりはべらむ」と申したまひければ、「朕をば謀るなりけり」とてこそ泣かせたまひけれ。あはれにかなしきことなりな。日頃、よく、「御弟子にてさぶらはむ」と契りて、すかし申したまひけむがおそろしさよ。東三条殿は、「もしさることやしたまふ」とあやふさに、さるべくおとなしき人々、なにがしかがしといふい むさ みじき源氏の武士たちをこそ、御送りに添へられたりけれ。京のほどはかくれて、堤の辺よりぞうち出でまゐりける。寺などにては、「もし、おして人などやなしたてまつる」とかたな一尺ばかりの刀どもを抜きかけてぞまもり申する。

大鏡「花山院の出家(退位)」現代語訳

(花山天皇は)永観二年甲申八月二十八日、ご即位なさいました。御年十七歳(です)。寛和二年丙戌六月二十二日の夜、意外で驚いたことは、だれにもお知らせにならないで、ひそかに花山寺においでになって、御出家入道なさったことであります。御年十九歳。世を治めになったのは二年間。御出家の後、二十二年間ご存命になりました。

しみじみとお気の毒に思われますことは、御退位なさった夜、藤壺の上の小戸からお出ましになったところ、有明の月がたいそう明るかったので、(天皇が)「あまりにあらわ(で気がひけることだ)だなあ。どうしたらよかろうか。」とおっしゃったのですが「さりとておとりやめになってもよいものではございません。」(すでに)神璽、宝剣はお渡りになったしまいましたからには。」と粟田殿(道兼公)がせきたて申し上げなさったのは、まだ天皇がお出ましにならなかった前に、自分自身で(神璽、宝剣を)取って春宮のほうにお渡し申し上げなさってしまったので、(天皇が)宮中におかえりになるようなことはあってはならぬとお思いになって、そのように申し上げなさったのだと(いうことです)。

(天皇は)明るい月の光を、時が引けることとお思いになっているうちに、月のおもてに群雲のかかって、少し暗くなっていったので、「私の出家は実現するのだなあ。」とおっしゃって、歩き出しなさる時に、弘徽殿の女御のお手紙で平素破り捨てずに御身から話さないでご覧になっていらっしゃったお手紙を思い出しなさって、「ちょっと待て。」とおっしゃって、取りにお戻りになった時のことですよ、粟田殿が、「どうしてこのように思い込みになってしまわれるのですか。今この機会のを逃したら、自然と差し障りの生じてまいるに違いありません。」といってうそ泣きをなさった。

(天皇が)花山寺にお着きになって、ご剃髪なさった後になって、粟田殿は、「(私はいったん)退出しまして(父の)大臣(兼家)にも(出家前の)変わらぬ姿をもう一度見せ、これこれと事情をお話しして、必ず戻ってまいりましょう。」と申し上げなさったので、(天皇は)「私をだましたのだなあ。」とおっしゃってお泣きになったそうです。しみじみとおいたわしく悲しいことでありますよ。(粟田殿が)平素よく(天皇が御出家なさったら)お弟子としてお仕えいたしましょうと約束しておいて、だまし申し上げなさったのというのは恐ろしいことですよ。東三条殿(兼家公)はひょっとして(粟田殿も成り行き上)出家なさるのではないかと、気がかりなために、ふさわしくて思慮分別に富んだ人々で、なんのだれそれというりっぱな源氏の武者たちを護衛として添えられていたということです。(武者たちは)京の町のうちは隠れて、堤の付近から姿を現してお供したそうです。(特に)寺に(着いてからは)などでは、もしやだれかが無理に(粟田殿を)出家させ申し上げしないかと気遣って、一尺ばかりの刀を抜きかけてお守り申しあげたということです。

さて、(粟田殿は天皇を)土御門大路を東の方に向かってお連れだし申し上げなさった時に、安部晴明の家の前をお通り過ぎになると、晴明自身の声で、手をしきりに、ぱちぱちとたたいて、「天皇がご退位なさると思われるぞ。天変があったが、すでにご退位は済んでしまったと思われるなあ。宮中に参上して奏上しよう。車の支度を早くしろ。」という(晴明)の声をお聞きになった天皇のお気持ちは、覚悟の上の御出家とは申しながら感慨無量にお思いになったことでしょうよ。(晴明が)「とりあえず式神一人宮中へ参上せよ。」と申しましたところ、目には見えない何ものかが、戸を押し開けて、後ろ姿を見申し上げたのでしょうか、「ちょうど今、家の前をお通りになっているようです。」と答えたとかいうことです。その(晴明の)家は、土御門大路と町口小路の交わるあたりですから、(花山寺)のお通り路であったわけです。

帝が花山寺に御到着になり、頭髪を剃って出家なされた後に、粟田殿が
「少しの間退出させて頂き、父の右大臣にも、出家する前のこの姿をもう一度見せ、これこれと事情をお話しして、必ず参上いたします
 と申し上げられました。すると帝はこの時始めて粟田殿に欺かれた事にお気づきになり、
「私をだましたのだな」
 と御泣きになった事です。何とも気の毒で、ひどく切ない事でございます。
 常日頃から粟田殿は口癖のように
「もし帝が出家なさいましたら、私も出家申して、お弟子としてお側にお仕え致しましょう」
 などと約束をされながら、だましていらっしゃったとは、本当に恐ろしい事でございます。
 粟田殿の父東三条殿は
「万一にも我が子が出家しはしないか」
 と気がかりに思うあまり、思慮分別があり、このような時にふさわしい者達、まただれそれと言う有名な源氏の武者達を護衛に付けられたのでした。この人達は、今日の町にいる間は隠れ、加茂川の堤の辺りから姿を現してお供申したのです。
 寺に着いてからは
「万一にも誰か強引に粟田殿を出家させはしないか」
 と一尺ばかりの刀を半抜きにしてお守り申したということです。

まとめ:大鏡「花山院の出家(退位)」現代語訳

大鏡「花山院の出家(退位)」は端的に言うと、花山天皇が藤原道兼(粟田殿)にそそのかされて出家したという内容です。

誰にも知らせず出家を決行することになった夜、あまりにも月が明るいので「このままじゃバレちゃう」と花山天皇は嫌がります。
ですが、道兼は「しかし今更とりやめることなどできません」と無理やり天皇を清涼殿から退出させます。このとき既に道兼は、天皇の証である三種の神器を皇太子(春宮)に独断で引き渡してしまっていたので、後戻りができないのはむしろ道兼の方だったのです。

清涼殿を出ても、花山天皇は「お気に入りのあの娘の手紙を忘れてきた。鳥に戻りたい」と駄々をこねます。その度に道兼は「そのように未練がましくなさってはいけません」と宥めすかします。

花山天皇と道兼の一行は、途中で陰陽師である安部晴明の屋敷の前を通りかかります。晴明は天皇の出家を不思議な力で察知したらしく、「式神よ。内裏に参って確かめてこい」と目に見えない式神の使者を送り出しました。

花山天皇たちは花山寺に到着し、天皇は無事に頭髪を剃って僧の姿になりました。すると道兼は「それじゃあ私はこれで失礼します」と言って帰ろうとします。
日頃から道兼は「帝が出家なさったら私も出家します」と言っていたので、天皇はようやく騙されたことに気付き、「私を騙して出家させたのだな!」と泣きながら怒ったのです。

■大鏡「花山院の出家(退位)」のポイント

  • 花山天皇は17歳で即位しました。
  • 19歳の時にひそかに花山寺に出家しました。
  • 天皇は2年間統治した後、22年間生き続けました。
  • 天皇が退位する夜、月が明るかったため驚きましたが、すでに神璽と宝剣を渡していたため引き返せませんでした。
  • 出家後、天皇は明るい月の光を見て実現が近づいたと感じ、手紙を取りに戻ろうとしましたが、それを止められました。
  • 天皇が花山寺に着いた後、粟田殿は一度退出し、父に話をしに行くと言い、天皇を騙しました。
  • 天皇はこのことに対して悲しみました。
  • 出家の際、天皇を守るために武者たちが護衛として付き添いました。
  • 安部晴明の声が聞こえ、天皇が退位したと思われると感じました。
  • 天皇が晴明の家の前を通ると、何かしらの存在が後ろ姿を見せたと言われました。
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