山月記の感想文で例文は?800字以内で中学生・高校生は?

スポンサーリンク
当サイトはアフィリエイト広告を使用しています。
デフォルト 0未分類

中学生や高校生だと国語の現代文の宿題で中島敦の短編小説「山月記」の感想文を提出するように求められることがあります。

あらすじを書くのではなく、自分の思った感想を書かなければいけないものの、山月記の感想文はどんな風に書けばよいんでしょうか?例文は?

スポンサーリンク

山月記の感想文の書き方は?

山月記は人間の心のなかにある人には触れて欲しくない普段は押さえつけているものが、虎という姿になって顕れるというはなしです。貴方にもそういうものがあるはずです。それとこれから、どう向き会って行こうとおもうのか、それを書けばいいと思います。

主人公の李徴にたらなかったものは、目標に向かって死物狂いで努力する必死さと、それでダメならスッパリと諦める潔さです。自分はそうならないようにしたいと書けばよいです。李徴の漢詩に何か足らないものがあるとは人間性のことです。それを大切に生きていきたいと最後にかけば、完璧です。

山月記の感想文で例文は?800字以内で中学生・高校生は?

小役人の身分に満足できない李徴は、大詩人になろうと励むうちに虎に変身してしまう。

私はそれがなぜ「虎」なのか、また変身した理由が「我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心」だとなぜわかるのかを疑問に思って全文を読み返した。

気づいたのは、李徴は、虎になった自分を見てから、それまでの自分が虎に似ていたこと、つまり「強い自尊心をもちながら臆病で、尊大なくせに羞恥心も強い」と虎とは、まさに自分のことだと。

草むらに隠れて獲物を狙う虎は「自尊心」と「羞恥心」を兼ね備えているというイメージに見えなくもない。

その「虎」になってしまう李徴の物語を読んで、実は私も「羞恥心」を覚えた。

「自尊心」は人一倍強いくせに、授業や部活で積極的に切磋琢磨するということになると「羞恥心」から尻込みしてしてしまう性格だから。

このままでは私も虎になるかもしれないので、なんとか自分を変えていきたいと思っている。
(約400文字)
引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12224257347


山月記を読み、最も印象深かったところは「人間が虎になる」という奇抜とも言える考えだ。

小説なのだからと最初は違和感など感じられなかったが、驚かされたのは虎になった理由「臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせい」・・・・圧巻である。

病は気からとはいうが、気持ちで虎になってしまうとは、まったく奇抜な考え方だ。

しかしこの考え方が自分にとっては、感動的なものだった。

「人間は誰でも猛獣使い」山月記の中の李徴の言葉であるが、この言葉にはとても同感である。

人の個性というものをとても分かりやすく表しているのだと私は思う。

李徴は言い換えれば自分の道を突き通そうとしたがため、虎になったとも言えるのではないだろうか。その生き方は尊敬に値する。

一つのものに対して自分の人間としての生活を捧げたようなものなのだから。

山月記は、悲しい物語に感じる。が、その物語を通じ、努力しなければという意志を与えてくれた。まったく不思議な作品だ


山月記を読み、最も印象深かったところは「人間が虎になる」という奇抜とも言える考えだ。
小説なのだからと最初は違和感など感じられなかったが、驚かされたのは虎になった理由「臆病な自尊心と尊大な羞恥心のせい」・・・・圧巻である。
病は気からとはいうが、気持ちで虎になってしまうとは、まったく奇抜な考え方だ。
しかしこの考え方が自分にとっては、感動的なものだった。
「人間は誰でも猛獣使い」山月記の中の李徴の言葉であるが、この言葉にはとても同感である。
人の個性というものをとても分かりやすく表しているのだと私は思う。
李徴は言い換えれば自分の道を突き通そうとしたがため、虎になったとも言えるのではないだろうか。その生き方は尊敬に値する。
一つのものに対して自分の人間としての生活を捧げたようなものなのだから。
山月記は、悲しい物語に感じる。が、その物語を通じ、努力しなければという意志を与えてくれた。まったく不思議な作品である。

引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10225069175


李徴は優れた詩人ではありましたが、全体的に自尊心が強く、かつ繊細な面も持ち合わせていました。『山月記』では彼の世渡り下手を正確に分析して描かれています。

たとえ自信があっても、もっと上がいるのではないかという「臆病な自尊心」。
また平素は思いあがっていても、重要な基本の部分を学んだら笑われるのではないかという「尊大な羞恥心」。
これこそ李徴に限らず、我々人間が陥り易い現実の姿です。
李徴という人物の生き方は、とりもなおさず我々人間全体の生き様だと考えられます。

では李徴を含めて我々人間はどうすればいいのか。どのような生き方が良いのか。
「自信と共に謙虚であれ」と言うのは容易です。
でも我々人間は誰でもそういう生き方が出来るのでしょうか?
意外に出来ないのが普通です。
人間は誰でも食欲・性欲・名誉欲などにより、他人に危害を加えても達しようとする「猛獣」の面があります。
しかし半面、それらの猛獣的な欲望を、規制しなくてはならないという、「猛獣使い」の面もあります。
これらをバランスよく規制できる人が何人いるでしょう?

作者の中島敦の持つ人間観は、「人間は弱さと強さを同時に持っている」という事を深刻に考えているとみていいでしょう。
中島は漢学の素養があり、作品は短編の名作が多いです。
しかし中島は青年期にありがちな自己嫌悪をかなり持て余してもいました。
人間の強弱の狭間で揺れ動いていた中島は、実は李徴でもあります。我々でもあります。
現代でも通じる人間本来の宿命の姿を描いた『山月記』は、これからも長いいのちを持つ名作だと思います。

引用:https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163312457

タイトルとURLをコピーしました