渋沢栄一と新選組・近藤勇、土方歳三の関係・接点は?つながりは?

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新選組の近藤勇、土方歳三らがその名をとどろかせていた幕末、渋沢栄一の年齢は20代で、伊藤博文や陸奥宗光など未来を担う若手のホープの一人でした。

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渋沢栄一と新選組・近藤勇の関係・接点は?つながりは?

渋沢栄一と新選組局長・近藤勇とは接点があったことは間違いないようです。

渋沢栄一の手記「青淵回顧録」「処世の大道」では、まだ一橋家の家臣だった時に新選組局長と出会った時の様子が記されています。

「一般から見ると非常に無鉄砲な向こう見ずの猪武者のように誤解されてるけれども、会ってみると存外温厚な人物で、無鉄砲な趣などなく、よく物事のわかる人であった」
と局長のことを自身の

慶応2年(1866)8月に一橋慶喜が徳川家を継いだことから家臣団は自動的に幕臣に組み入れられることなり、当然、一橋家の家臣の一人となっていた渋沢栄一も「陸軍奉行支配調役(しらべやく)」という御目見(おめみえ)以下の者の命じられる役職につきます。

そんな渋沢栄一は陸軍奉行配下として京都に赴任することになりますが、タイミングとしては剣客集団・新選組が幕府方の警察組織として京都の治安を守っていた時期と重なります。

渋沢栄一と新選組、そして近藤勇を直接むすびつけることになったのが、幕臣・大沢源次郎の捕縛事件です。

大沢源次郎は徳川慶喜に仕える幕臣(将軍直属の親衛隊である幕府御書院番士や京都見回組を兼務)ながら幕府転覆をもくろむ謀反を企てているとの嫌疑がかけられ、陸軍奉行調役の渋沢栄一が捕縛に向かうことになります。

※厳密には、京都町奉行の管轄の事案のようですが、京都町奉行では幕臣に直接手出しができないため、話が陸軍奉行までエスカレートしていったようです。

このとき、大沢源次郎が武装している恐れがあることから、渋沢栄一の護衛役、場合によっては捕縛の役割として白羽の矢が立てられたのが新選組でした。

新選組からは局長・近藤勇がじきじきに渋沢栄一に面会したとされています。

渋沢栄一と新選組・土方歳三の関係・接点は?つながりは?

渋沢栄一が主人公のNHK大河ドラマ「聖典を衝け」では新選組副長・土方歳三を町田啓太さんが演じます。

ドラマの設定では次のようになっています。

池田屋事件で功績を挙げた新選組の副長。幕臣になった栄一とある任務で出会い、同じ百姓出身ということもあって意気投合する。鳥羽・伏見の戦いで敗れるが、官軍に抵抗して各地を転戦。榎本武揚(えのもと・たけあき)や栄一のいとこ・喜作らと箱館に渡り五稜郭を占領するが、新政府軍との壮絶な闘いの中で戦死する。

■町田啓太コメント
幼少のころ、木刀を振りながら新選組のダンダラ羽織を一度は羽織ってみたいと思っていた自分に、「楽しみにしていな」とできるならば伝えたい心持ちです。
あまり広くは知られていない渋沢栄一と土方歳三の関わり、交わらなさそうな人との出会いによって、何か変化が起こり今の時代にもつながるなんて本当におもしろいものだなと感じます。
バラガキ、土方歳三の誠とは何だったのか、寄り添いながら自分なりに体現したいと思います。

渋沢栄一と土方歳三が出会うきっかけとなった任務とはまさに、大沢源次郎の捕縛事件のこと。

大沢源次郎の捕縛にあたっては、近藤勇の指示で副長・土方歳三が自ら隊士を数人率いて渋沢栄一の護衛につくことになります。

史実では、新選組の活動で土方歳三や沖田総司らが先陣を切っているものの、史実から考えると慶応2年ともなれば、近藤や土方という隊長クラスが自ら捕り物に向かうことなんて考えられません。

陸軍奉行からの依頼ということで異例の対応をしたのだと思われます。

渋沢栄一はもちろん、土方歳三とも対面するどころか同じ仕事を一緒にやっていたことになり、次のような言葉を残しています。

「近藤の次にいた土方歳三というのが、なかなか相当の人物で、それが警護に立つということになってーー」

さて、大沢を捕縛するにあたっては、ある問題が遭ったことから渋沢と新選組との間で意見に相違があったといいます。

「渋沢栄一の申し渡し」と「大沢源次郎の捕縛」の順番についてです。

申し渡しというのは、現代に置き換えると、容疑者に対して逮捕状を示すような行為。

筋から言うともちろん捕縛の前に、この申し渡しを行わなければなりません。

しかし、大沢源次郎は元見廻組の隊士で剣術に長けていることが予想されていました。

新選組からすると、そんな危険極まりない容疑者に対して、悠長に申し渡しなんてしていたら、いつ切りかかってくるかもわからないという危機感がありました。

渋沢栄一の護衛を任されている新選組にしてみれば、渋沢栄一にかすり傷でも負わせることは恥。

どちらの意見にも理があるように思えますが、栄一は一歩も引きませんでした。

■渋沢栄一
「新選組の人々の主張するところは、われわれは大沢逮捕のために来たのであるが、実は渋沢の護衛も一つの役目である。その渋沢にもし万一間違いでもあっては、われわれが護衛に来たかいなく、また単に護衛の意味を失うばかりでなく、新選組の名折れにもなる。だから万全の策として、まずわれわれがただちに大沢を縛り上げるから、その上で正式の申し渡しをされたいというのである」

作法どおりに自分がまず申し渡しをしたい渋沢栄一あh、当時の新選組の勢いに気圧されず、自らの意見を強く主張した結果、土方歳三がその覚悟を立てるかたちで決着しました。

結局、二組はその場で和解して任務に出向いたようです。

■渋沢栄一
「そのとき私を護衛してきた新選組の連中と口論して、まことに腹も立ったが、あるいは命を失うことになりはしないかという気がした。当時の新選組といったらそれこそ飛ぶ鳥も落とすほどの暴威をふるったもので、子供など泣くと「新選組が来るゾ」とよく口にしたものである」

新選組とも関係があった渋沢栄一がなぜ討幕→明治政府に?

大沢源次郎捕縛事件後、渋沢栄一は幕府から命でパリで開かれる万国博覧会に日本使節団(代表は徳川昭武)の一員としてフランスに派遣されます。

日本を出発したのは慶応3年(1867)1月のことで、渋沢栄一はパリ万博が終わったあともすぐには帰国せずにヨーロッパ各地を歴訪する徳川昭武に随行します。

渋沢栄一が帰国したのは約2年後の明治元年(1868)11月のことでした。

日本を出ている間に徳川幕府は解体され、元号も慶應から明治と変わっています。

渋沢栄一がもし、パリ万博からすぐに帰国をしていた場合、一橋家の家臣である以上、佐幕派としての活動を余儀なくされその名を歴史に残すことはなかったかもしれません。

渋沢栄一の生い立ちをたどっていくと、倒幕につながる思想をすでに一橋家の家臣の家臣止まる前に身に着けていたのかもしれません。

渋沢栄一が17歳の時のエピソードです。

地元・深谷の血洗島(ちあらいじま)を治めていた岡部藩の代官から突然の呼び出しを受けた。栄一はその日、病床にいた父の名代として代官屋敷に赴いたのだが、その栄一に、代官はいきなり「金500両、申し付ける」と厳命した。

「自分たちは真面目に働いて、年貢もきちんと収めているではないか。そのわれわれに、このうえさらに、巨額の出金を、いきなり、無理やり、しかも説明もなしに命じるとは何事か!」

17歳の無垢(むく)な栄一の腹は、その理不尽さに燃えた。しかし、栄一は「今日は父の名代として出席しているため、即答はできかねる。帰宅して、父の指示を受けたうえで改めて出頭する」ときちんと答えた。

これを聞いて代官は激高する。でも、500両もの大金を一点の瑕疵(かし)もないわれわれにいきなり押し付けてきた揚げ句のこの態度は何だ、と栄一の心は張り裂けんばかりである。それに、借り手が貸し手に、居丈高になって命令するのは一体、何の冗談!

結局、この件は父が500両を出して決着するのだが、栄一には深いわだかまりが残った。われわれが一生懸命に働いて得たお金を、何にも働かない役人どもが、ただ、自分が代官であるということを嵩(かさ)に威張り散らして取り上げることの理不尽さ。こんなことが横行する世の中は変えねばならぬ、と深く思った。

https://news.yahoo.co.jp/articles/6eba6a486de52b939a6b9e3766430f9592e417b3

農民はしっかり年貢を納めているのに、ろくでもない役人が威張りちらすだけで御用金まで要求される始末。こんな社会はおかしいと。

こんな社会を作っている幕府が間違っているんじゃないか?と倒幕思想を抱くようになった可能性が考えらえます。

一橋家の平岡円四郎との知遇を得て一橋家の家臣となって財政を受け持ち立て直すと、慶喜が将軍になるのは反対するが、将軍になった年に龍馬が暗殺され、栄一はパリ行きを命じられています。

近藤勇という人物に出会ったことで、身分制度が強い時代に農工商三民を武士に迎えた身分解放という新しい時代の風も吹き始めていました。

慶喜の家臣平岡円四郎、黒川嘉兵衛、原市之進が次々に暗殺されたのに栄一が暗殺されなかったのは一番危険な時期にパリに行ったことに加え、敵を作らず人を大切にし、組織活動を重視する面があったからだとも言われている。

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