つわものどもがゆめのあと(夏草や兵どもが夢の跡)の意味|松尾芭蕉

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「つわものどもがゆめのあと」 とはどういう意味?

松尾芭蕉の「夏草や兵どもが夢の跡(つわものどもがゆめのあと)」の「つわもの」とはどんな意味なんでしょうか?

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つわものどもがゆめのあと(夏草や兵どもが夢の跡)の意味|松尾芭蕉

「夏草や兵どもが夢の跡」は、松尾芭蕉が奥州藤原氏の栄華を偲んで詠んだ俳句です。この句は、芭蕉の代表作である「奥の細道」の終盤に位置し、旅の終わりにふさわしい感慨深い作品として知られています。

この俳句は、「かつて栄華を誇った奥州藤原氏も今は滅び、その跡地には草が生い茂るのみである」という解釈が一般的です。

「夏草」は、夏の強い日差しを浴びて力強く生い茂る草を連想させます。
「兵ども」は、奥州藤原氏に仕えた武士たちを表しています。
「夢の跡」は、かつての栄華が今は夢のように儚く消えてしまったことを意味します。

つまり、この句は、奥州藤原氏の盛衰を草の移ろいになぞらえ、無常の風を感じさせる作品と言えるでしょう。

つわものどもがゆめのあと(夏草や兵どもが夢の跡)の背景|松尾芭蕉

この句が詠まれた場所は、かつて奥州藤原氏の拠点であった平泉です。平泉は、12世紀に奥州藤原氏が栄華を誇った都市ですが、その後奥州藤原氏は源頼朝によって滅ぼされました。

芭蕉は奥の細道の旅の終盤に平泉を訪れ、奥州藤原氏の栄華の跡を目の当たりにしました。そして、この句を詠むことで、歴史の無常を感じ取ったのです。

奥州藤原三代について

坂上田村麻呂が蝦夷を討伐した延暦20年(801年)以後、250年程の間、陸奥国は比較的平穏を保ち、胆沢、和賀、江刺、稗貫(ひえぬき)、紫波(しわ。志波)、岩手の「奥六郡」は陸奥国の縁辺となっていた。

安倍氏は9世紀の後半頃から勢力を伸ばし、11世紀の初めには奥六郡の俘囚(中央では帰属した蝦夷を「ふしゅう」と呼んだ)長として実質的な支配力を持つに至り、奥六郡の北上

川一帯に軍事的拠点を築いて一族を配置した。

永承6年(1051年)になって、安倍氏が貢ぎ物や徭役について国司に従わず、奥六郡の南境である衣川の柵を越えて勢力圏を拡大しようとした。これを防ぐため、陸奥守藤原登任(なりとう)は安倍頼良を討とうとしたが鬼切部(おにきりべ。大崎市鳴子温泉鬼首)で大敗した。

この戦いが発端となり「前九年の役」が起き、康平5年(1062年)までに、源頼義やその子義家は、清原武則の援軍を得て安倍頼時や子貞任、宗任らを征討し、清衡の父藤原経清は捕らえられ斬首された。この功績で清原武則は鎮守府将軍に任ぜられた。実質12年間続いたこの戦をなぜ「九年」というかについては不明である。

「前九年の役」から22年後の永保3年(1083年)、源義家は陸奥守として再び陸奥に下った。当時清原氏は真衡の時代で、出羽国の所領に加え安倍氏の奥六郡をも支配し、強大な勢力を誇っていた。その中で、真衡の支配に不満を持つ一族の一人出羽の吉彦(きみこ)秀武が反乱。真衡は陸奥守の義家に支援を依頼した。

真衡は出羽に出陣し、義家は真衡の館を防衛した。秀武が味方につけていた真衡の親族・清衡と家衡は義家を攻撃したが敗退。しかし、真衡は遠征中に急病で死亡した。これを機に、清衡と家衡は開戦の責任を一門の者に転嫁し、義家に降伏した。結果、義家は二人を許し、奥六郡を二分してそれぞれに与えた。

だがまもなく、与えられた領地に対する家衡の不満がもとで清衡と家衡は対立する。応徳3年(1086年)両者の抗争が深刻化し、家衡は清衡の館を攻め、妻子などの親族を殺害した。

清衡は単身逃れ、義家に援助を求めた。これに応え義家は家衡を攻めるが敗退する。が、寛治元年(1087年)、義家は弟の新羅(しんら)三郎義光の助けを得、ようやく家衡を攻略。こうして「後三年の役」は終結した。「後三年の役」の戦について、何年からのことを指すのか明確ではない。

■藤原清衡
清衡は、安倍一族の血を引いて信望があったことを背景に陸奥押領使となり、奥六郡を支配。後に江刺郡の豊田館から平泉へ進出し、更に南下の勢いを見せた。関白家と庇護関係を結んで藤原姓を名乗り、栄華を極める奥州藤原三代黄金文化の礎を築いた。長治2年(1105年)中尊寺一山の造営に着手。21年の歳月を掛けて完成させた。金色堂は天治元年(1124年)、69歳の時に完成。その4年後の大治3年(1128年)7月17日、73歳で生涯を閉じた。金色堂中央の須弥壇の中に清衡、基衡、秀衡の遺骸、泰衡の首級が納められているが、遺骸の調査結果から、清衡の死因は「脳溢血またはそれに類する疾患」とされている。

■藤原基衡
基衡は、陸奥押領使となり、勢力を福島県下まで拡大した。性格は剛腹、果断と評され、中央の藤原氏と荘園問題で争ったこともある。大伽藍毛越寺を建立。中尊寺の規模が「寺塔四十余宇。禅坊三百余宇」(吾妻鏡)だったのに対し、毛越寺は、四十余宇、禅坊五百余宇に及んだといわれ、発掘調査の結果からも、中尊寺をはるかに凌ぐものだったことが裏付けられた。死亡年代は明らかではないが通説では保元2年(1157年)とされ、遺骸の調査結果から、50~60歳くらいで没し、死因は「脳腫瘍か脳溢血」と見られている。

■藤原秀衡
秀衡は、「吾妻鏡」によれば、嘉応2年(1170年)5月25日鎮守府将軍に任ぜられ、養和元年(1181年)8月25日に陸奥守になった。白河以北を完全に支配。国府は多賀城にあったが、実質、平泉が陸奥国の行政の中心だった。源義経を少年時代と都落ちの際の二度にわたり庇護するが、文治3年(1187年)10月29日、義経の行く末を案じながら「伊予守義顕(義経)ヲ大将軍トナシ国務セシムベキ由、男泰衡以下ニ遺言セシム」(吾妻鏡)と言い残し、病で急逝した。没年は不明だが、遺骸のレントゲン検査の結果から70歳前後と見られている。

つわものどもがゆめのあと(夏草や兵どもが夢の跡)の意味

「つわものどもがゆめのあと」とは、松尾芭蕉が奥の細道の終点である平泉で詠んだ有名な句です。これは、かつての栄華を誇った藤原氏が蝦夷の攻撃を受け、その後の荒廃した様子を表現したものです。具体的には、優れた忠義な家来たちが高館にこもり功名を競ったが、それも一時の夢と消え、今では草が生い茂るばかりだ、という意味です。

平泉では奥州藤原三代の栄華がありましたが、その後に蝦夷の攻撃を受け、施設が荒れ果てて草木が生い茂る状態になりました。この句は、かつての栄光を持つ人々が戦いの後に夢半ばにして散っていった様子を表現しています。

松尾芭蕉が平泉でこの句を詠んだ時、彼はかつての栄光を持つ人々の姿を想像し、その儚さに思いを馳せたのでしょう。この句は、時代の権力争いの後の荒廃や、人間の栄枯盛衰を表現しています。

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