「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」意味は?俳句の作者は誰?正岡子規?

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「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句の意味は?

また誰が作者なのでしょうか?

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「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」意味は?

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」という俳句には、風景や感覚、季節の要素が組み合わさっており、子供たちにも楽しんで理解できるように解説いたします。

まず、「柿食へば」では、柿を食べる瞬間の感覚が描かれています。柿の香り、味、そして食感をイメージしてみましょう。これは嗅覚、味覚、触覚など、五感を刺激する瞬間です。

次に、「鐘が鳴るなり」では、法隆寺の鐘の音が響き渡る瞬間を表現しています。ここで聴覚が重要です。大きな黒い鐘が揺れ、その音が秋の空に響き、斑鳩の里に広がっていく光景を想像してください。

最後に、「法隆寺」は風景を指しています。法隆寺の大伽藍や西円堂、そして斑鳩の里の風景が目に浮かびます。五感を通して描かれた風景は、子供たちにとっても魅力的でリアルなものでしょう。

この俳句は、季語として「柿」が使われていますが、「法隆寺」は季節に関係なく存在するため、いつでも楽しむことができると解説されています。風流な風景と美味しい柿、そして鐘の音が織りなす瞬間を感じることができる名句です。

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」作者は誰?正岡子規?

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」の作者は明治時代に活躍した俳人・正岡子規が奈良法隆寺を訪れた際の体験を詠んだものです。

子規は、それまで固定観念に縛られていた文学の世界を、見たまま、感じたままを表現するように改革しました。

江戸時代には、「柿」という果物は卑俗なもので、詩に詠むには適さない、とされていました。
しかし、秋の大和路に現に柿があり、その柿の味が印象に残ったとしたら、
それを素直に詠むべきだ、と子規は考え、作品にしたのです。
今となっては当たり前のことですが、その当たり前のことを初めてやったから、名作とされるのです。

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」実は東大寺?

正岡子規の有名なこの句ですが。

明治28年10月、子規が奈良に立ち寄った際、法隆寺の茶店で詠んだ句と言われています。

この句の初出は明治28年(1895年)11月8日号の「海南新聞」です。

「法隆寺の茶店に憩ひて」という前書きがあります。

つまり、旅先で訪れた奈良の法隆寺の近くの茶店で休憩しているときの詠だというのですね。

正岡子規の随筆、「くだもの」には、奈良の宿で、女中が柿をむいてくれたことが書かれています。

ある雑学書では、事実は、東大寺裏の旅館に泊まっていた子規が夕食の後に柿を食べて居た時、近くの東大寺の鐘がなったのだそうでこの鐘は「初夜」と呼ばれるその日最初の鐘のことで、

この「初夜の鐘」に興味を持った子規が翌日法隆寺を訪ね、この風景と結びつけ句を読んだと言われています。

ですから、それは、法隆寺の鐘ではなく、東大寺の鐘が、時を知らせたのだと思います。

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」正岡子規の茶店

明治28年10月、子規は奈良法隆寺を訪れ境内の茶店で休んでいたところ、奈良名産の御所柿が盆に盛られて出てきました。
現在の法隆寺境内の西端に小さな茶店がありますが、そこがこの茶店でしょうか。

子規は、食道楽として有名でしたが、柿などの果物も好物だったとのことです。この茶店で、うまそうな柿が出てきたので、思わずにこりとしたことでしょう。

その茶店の北、少し山にかかった小高いところ、かなり長い石段の上方に、八角造りの西円堂(さいあんどう)というお堂があります。ここには奈良時代に制作された薬師如来坐像が安置されています。

茶屋の前からその西円堂の石段を登っていき、正面右側に回ると古い鐘楼があり、大きな黒い鐘がかかっていました。これが法隆寺の時の鐘で、昔から斑鳩の里に時を告げてきました。

子規が、抜けるような秋空のもと、そそり立つ法隆寺の大伽藍を見ながら茶店で柿を食べていると、すぐ近くにある西円堂の鐘楼から時を告げる鐘の音が響き始めました。
鐘の音は、法隆寺の裏山にこだまし、微妙なうねりを伴いつつ斑鳩の里に伝わっていきました。

子規は、手にした柿を食べるのを忘れて、自分を包み込む荘重な鐘の音に聴き入ったのでしょう。

まとめ:「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」意味は?俳句の作者は誰?正岡子規?

「柿食へば鐘が鳴るなり法隆寺」は、明治時代の俳人、正岡子規が1895年に詠んだ俳句です。

1895年5月、子規は連隊付き記者として日清戦争に従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷松山に戻り、松山中学の教員として赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)に50日ほどとどまります。

漱石は2階、子規は1階に棲み、子規は柳原極堂ら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在しています。

この句は、子規が奈良を訪れた際に、法隆寺境内の茶店で柿を食べていると、近くにある鐘楼から鐘の音が聞こえてきたという体験を詠んだものです。

1895年5月、子規は連隊付き記者として日清戦争に従軍中に喀血、神戸に入院したのち故郷松山に戻り、松山中学の教員として赴任していた夏目漱石の下宿(愚陀仏庵)に50日ほど仮寓した。漱石は2階、子規は1階に棲み、子規は柳原極堂ら松風会のメンバーに漱石を加えて句会三昧の日々を過ごしていた。その後病状がよくなったため10月下旬に帰京するが、その途中で奈良に数日滞在している。

子規は、法隆寺境内の茶店で、奈良の名産である御所柿を食べていました。すると、近くにある鐘楼から、時を告げる鐘の音が聞こえてきたのです。

子規は、柿の甘い味と、鐘の澄んだ音に、心を奪われました。そして、その瞬間を俳句にして詠んだのです。

この句は、柿の味と鐘の音を、五感で感じさせてくれる俳句です。

「柿食へば」で、柿の甘い香りと、口の中ではじけるような食感を想像します。
「鐘が鳴るなり」で、鐘の澄んだ音色と、鐘楼から響き渡る音の広がりを想像します。
「法隆寺」で、法隆寺の荘厳な姿と、静寂な空気を想像します。

このように、この句は、五感をフルに働かせることで、読者の心を揺さぶる力を持っています。

また、この句は、柿と法隆寺という、風流なもの二つを掛け合わせた俳句です。

柿は、秋の季語であり、秋の風物詩として親しまれています。法隆寺は、世界遺産に登録されている古寺であり、日本の歴史と文化を象徴する存在です。

この二つを掛け合わせることで、秋の風情と、法隆寺の悠久の歴史と文化が、より一層際立って表現されています。

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