不若人有其宝の書き下し文は?現代語訳・意味は?人ごとにその宝を有するに若かず

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「不若人有其宝」とは紀元前5世紀前後の前漢時代の劉向 による『新序』に出てくる漢文の一つ。

高校の国語の古典の授業で使われることが多い不若人有其宝の書き下し文は?現代語訳した場合の意味は?

■原文
宋人有得玉者。獻諸司城子罕,子罕不受。獻玉者曰:「以示玉人,玉人以為寶,故敢獻之。」子罕曰:「我以不貪為寶,爾以玉為寶,若與我者,皆喪寶也,不若人有其寶。」故宋國之長者曰:「子罕非無寶也,所寶者異也。今以白金與摶黍以示兒子,兒子必取摶黍矣;以和氏之璧與百金以示鄙人,鄙人必取百金矣,以和氏之璧與道德之至言,以示賢者,賢者必取至言矣。其知彌精,其取彌精;其知彌?,其取彌?。子罕之所寶者至矣。」

■『新序』(しんじょ)
前漢の劉向(りゅうきょう)による故事・説話を集めた書物であり、おなじ劉向による『説苑』(ぜいえん)とよく似た内容を持っている。唐以前の書はみな二〇巻とあるが、宋以後、伝えるところはみな十巻とある。

現行本は10巻で構成され、全部で181章からなる[3]。ある程度内容によって分類されている。最初の5巻は「雑事」と題がついている。6巻以降は「刺奢」「節士」「義勇」「善謀」「善謀下」となっている。多くは先秦の話であるが、最後の巻10は漢代の逸話を述べる。

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不若人有其宝の書き下し文は?人ごとにその宝を有するに若かず?

『新序』に出てくる「不若人有其宝」の書き下し文は「人ごとにその宝を有するに若かず」です。

「人」が「人ごと」つまり「人それぞれ」となるのは漢文の「人」は、もともと英語と違って単数形・複数形ということが明確ではないからです。

漢和辞典には「ひと‐ごとに」の読みが載っています。(漢辞海)
意味として:一人ひとりに、人のように、めいめいに、の意味。

ここでは、宝玉を献じた人、豎子、鄙人、子罕、一人ひとりに、それぞれの宝がある、という意味で「ひと‐ごとに」と読んでいます。

それから一つの漢字に現代日本語より多くの意味があります。

例えば「人」には、人間とか国民とか他人とかある人とかの意味があります。

場合によっては、優れた人と凡人という正反対の意味になることもあります。

■書き下し分
宋人、玉を得る者有り。諸(これ)を司城子罕に獻ず。子罕受けず。玉を獻ずる者曰わく「以て玉人に示す,玉人以て寶と為す,故に敢へて之を獻ず。」と。子罕曰わく「我は貪らざるを以て寶と為す,爾は玉を以て寶と為す,若し我に与へば,皆寶を喪ふなり,人ごとに其の寶を有するに若かず。」と。故に宋國の長者曰わく「子罕は寶無きに非ざるなり,寶とする所の者、異なるなり。今白金と摶黍とを以て兒子に示さば,兒子必ず摶黍を取らん;和氏の璧と百金とを以て鄙人に示さば,鄙人必ず百金を取らん,和氏の璧と道德の至言を以て,以て賢者に示さば,賢者必ず至言を取らん。其の知、彌々(いよいよ)精しくして,其の取ること彌々精し;其の知、彌々?(あら)くして,其の取ること彌々?し。子罕の寶とする所の者は至れり。」と。

不若人有其宝の現代語訳・意味は?

不若人有其宝(人ごとにその宝を有するに若かず)の意味は一般論として「人ごとにそれぞれ自分が宝と思うものを持っていた方がいい」といった意味になります。

具体的にはこの「人」は子罕と献玉者の二人です。

子罕が献玉者に対して、「君も僕も、どちらも自分が宝と思うものを持っていた方がいいだろう」と言っていると解釈されています。

不若人有其宝(人ごとにその宝を有するに若かず)の現代語訳は、

宋の人で玉を得た者がいた。これを司城子罕に献上したが,子罕は受けとらない。玉を献上した者は言った「これを玉匠に見せたところ,玉匠は宝玉としました(鑑定した),そこで是非とも、之を差し上げるのです。」子罕は答えた「我は貪らないことを宝と考えている,君は宝玉を宝と考えている。もし私に玉を与えたら,二人とも皆、宝を失うことになる,それぞれの人が、その宝を所有するのに越したことはない。」そこで宋國の長者は言った「子罕には宝がないわけではない。宝とするものが異なるのだ。今、白金と摶黍(穀物団子)を子供に見せたなら,子供は必ず団子を取るだろう;和氏の璧と百金を田舎人に見せたなら,田舎人は必ず百金を取るだろう,和氏の璧と道德的至言を賢者に示したなら,賢者は必ず至言を取るだろう。(児童から賢人を比較して)其の知恵がいよいよ精妙さを増せば,其の取るものもいよいよ精妙となる;其の智慧がいよいよ粗雑さを増せば,其の取るものも、いよいよ粗雑になる。子罕の宝とするのは至言であるのだ。」

不若人有其宝の問題・テスト対策

「不若人有其宝」でよくテストで出題されやすい問題としては、

  1. なぜ皆が宝を失うことになったのか(5文目)
  2. なぜ、「至矣」(至れり、子かんの宝は最上のものである)と言ったのか(最後の一文)


宋の人で玉を得た者がいて、これを司城(役職名)である子罕に献じたが、子罕は受け取らなかった。

玉を献じた者は、
「玉人(玉を鑑定する人)に示すと、玉人は(本物の)宝だとしています。
だから私は敢えて(無理をして・進んで)あなたに献じたのです」と言った。

子罕は、「私は貪らないということを玉とし、あなたは玉を宝としています。

若し私に玉を与えれば、皆が宝を喪うことになります。(つまり,あなたは宝である玉を失い、私は貪らないという信念(玉)を失うからです。)

人ごとに其の宝とするものが有るのであって、それ以上には及びません(それに越したことはありません)」と言った。


だから宋国の長者は、「子罕は宝が無いのではありません。
宝とする所のものが異なるのです。
今,大金と黍団子を子供に示せば,子供は必ず黍団子を取るでしょう。
和氏の璧(宝玉とは判らない)と大金を田舎者に示せば、
田舎者は必ず大金を取るでしょう。
和氏の璧と道徳の至言を賢者に示せば、
賢者は必ず至言つまり真実の言葉を取るでしょう。
その知恵・知性が精緻(優れたもの)であれば、
その取るところはますます精緻となります。
その知恵・知性が粗雑(劣るもの)であれば、
その取るところもますます粗雑となります。
子罕が宝とする所のものは、
至ることは、最上のもの(真実の言葉)です」と言った。

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