桂昌院(大奥お玉)は玉の輿!身分は?お墓は?

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桂昌院とは5代将軍徳川綱吉の母

八百屋の娘から3代将軍家光の側室にまでのぼりつめる玉の輿でドラマ「大奥」ではお玉として活躍します。

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桂昌院(大奥お玉)は玉の輿!身分は?お墓は?

桂昌院は関白二条氏の家司本庄宗利の義理の娘でお玉の方(お国の方)と呼ばれていました。

実父は京の町人八百屋仁左衛門で、連れ子だった。正室孝子の侍女から召し出されたといわれ、寵を得て徳松(五代将軍綱吉)を生む。

家光の没後、落飾して桂昌院と号した。その後、徳松が将軍に就任すると従三位、ついで元禄十五年(1702)に従一位に叙されている。

お玉の方(桂昌院)は大奥に奉公した当初、お万の方(永光院)の御小姓だったそうです

つまり側室の腰元から、上様お手つきになり男子を産んだことで自分も側室に昇格。そして、お万の方が大奥に上がる前に尼僧となると護持院の住職隆光と結び、権勢を振るい、その縁で大名や旗本に取り立てられた者も多い。

宝永二年(1705)、85歳で没。芝増上寺に葬られる。

ドラマ「大奥」では春日局が死ぬ際に大奥総取締という架空の役職(身分?)に指名されますが、子を成した側室が大奥総取締になってはいけないということで、お万が生んだ子の「御生母様」となります。

で、生まれた子供が後の五代将軍・徳川綱吉ということになります。

繰り返しますがお玉は尼君様(お万の方)が生んだ子の母親になって、建前で家光の側室ってことになっているだけです。

作中にはお玉が家光の伽をするシーンはありません。つまり、妊娠していません。上記の設定はドラマ上の設定であって、あくまでもフィクションです。

史実で徳川綱吉を生んだのは、お玉の方(桂昌院)です。

ドラマ「大奥・第一章」の「お玉」は、史実の綱吉生母「お玉の方(桂昌院)」を参考に創作された架空の人物ということです。

■徳川将軍三代・家光について

●慶長九年(1604)、二代将軍・秀忠の次男として江戸城で生まれる。
●幼名:竹千代 → 家光
●幼年時代は体が弱く、弟・忠長と将軍継嗣を争う。しかし、家康の裁断で将軍の座に就く。
 元和六年(1620)、正三位権大納言に叙任。
 元和九年七月、上洛して征夷大将軍に就任。
 寛永九年(1632)までの10年間は、父・秀忠との二元政治が展開される。
 乳母として、春日の局が有名。
 武家諸法度の改定や参勤交代の確立など諸制度の整備がすすめられ江戸幕府の基礎を固めた。また、一門や外様大名の改易・転封を行い、キリスト教を禁圧し鎖国を実施。
 この時期、有名な「島原の乱」も起こっている。
 寛永十一年、太政大臣に任ぜられるが辞退している。これは、家康が太政大臣になったのが、晩年75歳の亡くなる年だったのに、自分はまだ若輩だとの理由だと思われている。
 慶安四年(1651)没。
 法名を大猷院と号し、日光山に葬られた。
●正室と側室:側室は8人いたことがわかっている。
○正室:孝子
 鷹司信房の娘として慶長七年に生まれる。
 寛永二年、婚儀。
 家光とは仲がうまくいかなかったといわれている。吹上の広芝に別居生活を送る。これより中の丸様と称される。家光の没後、落飾して本理院と号する。
 延宝二年(1674)、73歳で没。小石川伝通院に葬られる。
*弟の鷹司信平は、家光に招かれて幕臣となり、承応三年(1654)には家綱の御前において、松平の称号を許され、従四位下権少将に叙任される。鷹司松平家祖となる。
○側室:お夏の方
 京都の町人弥市郎(のちの旗本藤枝重昌)の娘。
 寛永十四年に召し出され、後に綱重を生む。
 天和三年(1683)没。法名を順性院という。浅草の幸竜寺に葬られた。
○側室:お万の方
 公家六条有純の娘。はじめ伊勢宇治の内宮社層慶光院に入寺して住職となった。
 寛永十六年、継目御礼のため参府した時に召し出され、還俗をめいじられた。後に、大上?揩ニなり、お梅の局と称したが懐胎は禁じられている。これは公卿の血を引くお万の方が子を生むと、幕府の公家対策として上で得策でないとの思惑だと思われる。
 正徳元年(1711)、没。法名を永光院、小石川の無量院に葬られる。
*家光はお万の方への寵愛によって、弟の六条右衛門氏豊(忠豊)を召し出して千石を与え、高家役として従四位下に叙し、侍従に任じた。後には千石を加増して二千石を領有させた。その嫡子・氏興も父の家督を継いで綱吉の代に高家役をつとめ、戸田中務大輔となってつづいている。
○側室:お玉の方(お国の方)
 関白二条氏の家司本庄宗利の義理の娘。実父は京の町人八百屋仁左衛門で、連れ子だった。正室孝子の侍女から召し出されたといわれ、寵を得て徳松(五代将軍綱吉)を生む。家光の没後、落飾して桂昌院と号した。その後、徳松が将軍に就任すると従三位、ついで元禄十五年(1702)に従一位に叙されている。護持院の住職隆光と結び、権勢を振るい、その縁で大名や旗本に取り立てられた者も多い。
 宝永二年(1705)、85歳で没。芝増上寺に葬られる。
○側室:お楽の方
 実名をお蘭と称し、春日の局が浅草寺参府にさい見出されたといわれている。実父は古河藩領下野都賀郡高島村の百姓青木利長の娘とも陪臣朝倉惣兵衛の娘ともいわれているが明らかではない。古河藩主永井氏の家臣七沢清宗の養女として大奥に上がった。家綱の生母として知られている。
 承応元年(1652)没。上野寛永寺内の勘善院に葬られる。法名を宝樹院。
○側室:お振の方
 幕臣町野幸和の養女として寛永三年召し出された。実父は蒲生氏郷の旧臣岡重政といわれるが定かではない。千代姫を生む。
 寛永十七年、没。法名を自証院。市ヶ谷の自証院に葬られた。
*千代姫は美しく、尾張家二代光友の簾中となり、尾張家三代綱誠の生母となる。
○側室:お琴の方
 浄土真宗寺院徳円寺の住職の娘。
 寛永十八年、大奥に勤める。家光の死後、落飾して芳心院と号する。
 元禄四年、78歳で没。葬地は不明。
○側室:お里佐の方
 正室孝子の侍女として元和九年、大奥に勤めた。父親は諸説あり不明。鶴松(早世)を生む。家光の死後は落飾して定光院と号した。
 延宝二年没。牛込の済松寺に葬られる。
○側室:おまさの方
 不明
●子女
○家光の子女は男5人、女一人。いずれも側室との間の子で、正室孝子との間には子供はいない。
○綱重
 寛永二十一年に生まれる。幼名を長松。俗忌をさけて伯母天樹院の養子となり、竹橋御殿に住む。
 承応二年、正三位権中将に叙任される。元服して、綱重となる。
 寛文元年(1661)、甲斐25万石に封ぜられ、甲斐宰相と言われる。
 延宝六年、没。法名を清揚院。芝増上寺に葬られる。
 綱重の子・家宣は綱吉の跡を襲い六代将軍となる。三子・清武は別家して御家門「越智松平家」を興している。
○千代姫
 寛永十四年、生まれる。翌年、尾張徳川光友と縁組し、寛永十六年入輿している。

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