キングダムで項羽と劉邦の登場は?李信と王賁はどうなった?

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漫画「キングダム」で項羽と劉邦が登場する?

その後、項羽と劉邦が攻めてきた時に李信と王賁はどうなるんでしょうか?

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  1. キングダムで項羽と劉邦の登場は?
  2. キングダムの李信と王賁は項羽と劉邦と戦う?/h2> 「キングダム」の時代の史料はほぼ『史記』しかありません。焚書坑儒と、項羽の咸陽への放火で多くの史料が焼失した可能性が高いのでしょう。 現在は、司馬遷がまとめた『史記』以外の史料はほぼ散逸しているため、史記に記述がないことイコール、不明ということになってしまいます。 ただずっと後代に成立した『新唐書』には李信の家系が細かく記されています。 この記録を信用するとすれば、李信は秦の大将軍で隴西侯。李超は漢の大将軍で漁陽太守ということらしいのです。 楚漢戦争のことも考えれば、辻褄が合わないような気がしてなりません。 李信が生きていれば、章邯が起用されることもなかったでしょう。 ただそれでも、史記にまったく記録のないためこの記録も正しいかどうかは不明です。 判っているのは 李信紀元前226年、燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕都・薊を攻略し、燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた(燕の事実上の滅亡)際に、李信は約1000の兵を率いて燕軍を追撃し、太子丹を討ち取っている紀元前225年、楚攻略戦の総大将となり副将の蒙恬と共に二手に分かれて侵攻、連戦連勝を重ねるが城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕率いる楚軍に奇襲され大敗。総大将の地位を交代させられるしかし粛清されることなく、紀元前221年には王賁と蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼす。このため史実でも秦王政に信任されていたと思われる。彼の子孫は戦乱を生き残ったらしく、曾孫は前漢時代の将軍・李広、その孫には史記を書いた司馬遷の親友、李陵(中島敦の小説でも有名)また唐時代の詩人李白も子孫だそうです 王賁父と共に多くの戦場で戦い活躍していたそうですが、史記には殆ど父王翦と連名で記載されていて、父とともに活躍したらしい。秦の天下統一の最終戦となった斉侵攻では李信、蒙恬と漫画どおりのコンビを組んで攻め込みこれを攻略したらしい。秦の中華統一後通武侯に封じられている。 だけです 始皇帝の死後はどうなったかは全く不明です 因みに、始皇帝死去時に生存していた蒙恬は趙高らに脅威と感じられ、濡れ衣を着せられ自害に追い込まれ、弟の蒙毅も冤罪で処刑され、蒙家は完全に根絶やしにされました

キングダムで項羽と劉邦の登場は?

結論から言うと、キングダムは政が皇帝(始皇帝)になるまでを描くことが決まっている(作者が明言している)ので項羽と劉邦の出番はないでしょう。

ただ、始皇帝在命時に劉邦は生まれてはいるので、登場シーンならあるかもしれん

その代わりに「劉邦」が時代背景としてはキングダムの続編のような感じです。

秦が中国を統一した直後、趙高の悪政により、楚などの出身者が反発して蜂起した中の一人で、後々三国志と繋がる前漢の初代皇帝劉邦の話ですね

劉邦という漫画は紀元前219年から始まっているので、秦が王国(キングダム)ではなく帝国(エンパイア)になってから二年後から始まる話で、時代設定は続編ということになります。キングダムの秦王政が劉邦に出てくる始皇帝です。キングダムって、天下統一したら終了ですよね?題名が合わなくなりますし。

劉邦の漫画は時代的には続編ですが、始皇帝はその漫画程は悪い奴ではないと思います(というか、それに憧れる劉邦も怖すぎです。)。秦は15年で滅びてしまったから悪逆な皇帝だったとした方が分かりやすいのかもしれませんけど…。
劉邦は罪人ではありませんし(罪人になる前に逃げた)、彼自身が賦役に付くために咸陽に行ったのではないので、史実と違うような気がします…。話が史実と違ってしまうのは仕方ない事でしょうか。

キングダムの秦王政は良い奴そうですよね。主役が違えばまるっきり性格まで変わるもんですね。まあ、始皇帝の本当の性格はよく分からないのでしょう。仕事熱心だったようですが。

劉邦の方はそんなに性格は変わっていないと思います。良い加減で女好き。史記でも性格について詳しく述べているので、どんな人物か描きやすいのでしょう。

キングダムの李信と王賁は項羽と劉邦と戦う?/h2> 「キングダム」の時代の史料はほぼ『史記』しかありません。焚書坑儒と、項羽の咸陽への放火で多くの史料が焼失した可能性が高いのでしょう。 現在は、司馬遷がまとめた『史記』以外の史料はほぼ散逸しているため、史記に記述がないことイコール、不明ということになってしまいます。 ただずっと後代に成立した『新唐書』には李信の家系が細かく記されています。 この記録を信用するとすれば、李信は秦の大将軍で隴西侯。李超は漢の大将軍で漁陽太守ということらしいのです。 楚漢戦争のことも考えれば、辻褄が合わないような気がしてなりません。 李信が生きていれば、章邯が起用されることもなかったでしょう。 ただそれでも、史記にまったく記録のないためこの記録も正しいかどうかは不明です。 判っているのは 李信紀元前226年、燕の太子丹が主導した荊軻による秦王政(後の始皇帝)暗殺未遂事件の報復として、燕都・薊を攻略し、燕王喜と太子丹を遼東に敗走させた(燕の事実上の滅亡)際に、李信は約1000の兵を率いて燕軍を追撃し、太子丹を討ち取っている紀元前225年、楚攻略戦の総大将となり副将の蒙恬と共に二手に分かれて侵攻、連戦連勝を重ねるが城父で李信と蒙恬が合流した所を、三日三晩追跡して来た項燕率いる楚軍に奇襲され大敗。総大将の地位を交代させられるしかし粛清されることなく、紀元前221年には王賁と蒙恬と共に斉を攻め、これを滅ぼす。このため史実でも秦王政に信任されていたと思われる。彼の子孫は戦乱を生き残ったらしく、曾孫は前漢時代の将軍・李広、その孫には史記を書いた司馬遷の親友、李陵(中島敦の小説でも有名)また唐時代の詩人李白も子孫だそうです 王賁父と共に多くの戦場で戦い活躍していたそうですが、史記には殆ど父王翦と連名で記載されていて、父とともに活躍したらしい。秦の天下統一の最終戦となった斉侵攻では李信、蒙恬と漫画どおりのコンビを組んで攻め込みこれを攻略したらしい。秦の中華統一後通武侯に封じられている。 だけです 始皇帝の死後はどうなったかは全く不明です 因みに、始皇帝死去時に生存していた蒙恬は趙高らに脅威と感じられ、濡れ衣を着せられ自害に追い込まれ、弟の蒙毅も冤罪で処刑され、蒙家は完全に根絶やしにされました

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