何事にも先達はあらまほしきことなり 意味は?仁和寺にある法師(徒然草)

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「何事にも先達はあらまほしきことなり」とは意味は?

徒然草「仁和寺にある法師」に出てくる「何事にも先達はあらまほしきことなり」を現代語訳すると?

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何事にも先達はあらまほしきことなり 意味は?仁和寺にある法師(徒然草)

徒然草(五十二段:仁和寺にある法師)の「何事にも先達はあらまほしきことなり」とは意味は「ほんのちょっとしたことにも、指導者は持ちたいものである。」といった感じでしょう。

仁和寺の法師が老いの一念発起で岩清水を参拝しにいき、極楽寺や高良をみて満足して帰り、同僚の法師に参拝の感想を話した。その時、参拝した人たちが山の上へと向かっていったが、私は参拝に来たのであって物見遊山ではないので登らなかったと山に登る不信心者をたしなめる話をしたとか。岩清水八幡宮が山上にあると知っている吉田兼好は「少しのことにも、先達はあらまほしき事なり。」とこの段を結び、その面白さから徒然草を代表する有名な段として取り上げられています。貴賎を問わず先達(専門家)には敬意を表し、したり顔の高慢家には容赦しない兼好法師の人柄がうかがえる段でもあります

まとめ:何事にも先達はあらまほしきことなり 意味は?仁和寺にある法師(徒然草)

「先達」・・その道の先輩。指導者。
「あらまほし」・・文語体の形容詞です。 そうありたい。そうあってほしい。理想的である。。といった意味です。
「何事にも、模範となるよう指導者はいて欲しい」といった解釈で宜しいでしょう

「徒然草」は、もちろん、評論文的要素も多分にあるのですが、
あくまで「随筆」です。
随筆の読み方の基本は、筆者の体験や見聞きした事実の段落と、
筆者の意見や感想の段落を読み分けることです。

とすると、この章段では、仁和寺の法師の失敗談が「見聞きした事実」、
最後の一文だけが、筆者兼好法師の「感想、意見」です。

何も、無理やりなんらかの教訓を読み取る必要はなく、
単なる笑い話と解釈してもいいわけですが、
最後の一文があるために、一応、教訓めいた「オチ」がついているわけです。

「先達」がなかったばかりに、自分の思い込みによって失敗した、
仁和寺の法師の愚かさを指摘しています。
ちなみに、「仁和寺の法師」は、どういうわけか失敗譚ばかり披露されます。

■吉田兼好 徒然草 仁和寺にある法師

仁和寺にある法師、年よるまで岩清水を拝まざりければ、心うく覚えて、あるとき思ひ立ちて、ただ一人、徒歩より詣でけり。
極楽寺、高良などを拝みて、かばかりと心得て帰りにけり。

さて、かたへの人にあひて、「年ごろ思ひつること、果たしはべりぬ。聞きしにも過ぎて尊くこそおはしけれ。そも、参りたる人ごとに山へ登りしは、何事かありけん、ゆかしかりしかど、神へ参るこそ本意なれと思ひて、山までは見ず。」とぞ言ひける。

少しのことにも、先達はあらまほしきことなり。

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