琉球王朝の子孫は?現在は比嘉愛未?なぜ滅びた?

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琉球王朝の、尚一族の子孫は、現在どうしているんでしょうか?

琉球王朝は王国の規模は小さくても、元王侯貴族がたくさんいたようですが、ジョンカビラさんや比嘉愛未さんが琉球王朝の末裔というのは本当?

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琉球王朝の子孫は?現在は比嘉愛未?なぜ滅びた?

琉球王朝の子孫ではっきりしているのは、第23代当主(琉球王国王家第二尚氏第23代当主)、尚衛氏が健在です。

遥かなる伊勢の地より、沖縄の安寧を願う - OKINAWA41
遥かなる伊勢の地より、沖縄の安寧を願う 私は尚満喜(しょうまき)と申します。 尚家はその昔、沖縄県が琉球國であ

尚家は旧侯爵家で尚衛氏は第22代当主で侯爵の尚裕の長男に当たります。

三重県伊勢市在住で子供は子4人(尚孝之、尚陽輔、尚猛、尚満喜)いるようです。

現在は一般社団法人琉球歴史文化継承振興会代表理事などを歴任しています。

ちなみに、「尚」という苗字は、

:全国人数約300人
・琉球王
・清和源氏、源為朝の子孫
・在日中国人姓

※琉球王尚氏(第一尚氏)の本姓は金丸。

1、初代琉球王舜天は源為朝を父とする出自伝説により平安朝廷から下賜されたとされる説。
2、尚氏は九州、琉球交易の中心の中華皇帝遼寧省を治めていた王(将軍)の氏で明皇帝から下賜された説。

最後の琉球王尚泰さんのお孫さんの尚明さんは日本住宅公団に勤務され、ダイニングキッチンを考案されたことで知られています。奥様の道子さんはNHK「きょうの料理」で活躍され、タコさんウィンナーを考案されました。

ジョン・カビラさん、川平慈英さんも。第二尚氏の四代国王から別れた一族で、通訳使として国王に仕えていたようです。

女優の比嘉愛未さんも曾祖母から琉球王朝の末裔・子孫であることを明かされたそうです。

比嘉愛未「琉球王朝の末裔だった」 101歳の曾祖母から明かされたと報告
「最近(地元の)沖縄に帰った時に、101歳のひいおばあちゃんから『ウチは、琉球王朝の末えいだったんだよ』と言われました」

琉球処分のあと、19代国王・尚泰(しょう・たい)は東京住まいを強制されたことから、嫡流系の子孫・末裔は基本的に東京出身者が多いようです。

直系は

尚泰→尚典→尚昌→尚裕→23代・尚衛(しょう・まもる)と続いてます。

※尚泰の次男・四男は沖縄に戻ったので、その子孫は沖縄にたくさんいます。

尚泰の四男・尚順は沖縄銀行、琉球新報社を設立。

他にも、子孫が桃原(とうばる)農園という造園業をはじめ、今現在もあります。

弟系の方が沖縄で造園・環境整備の会社を営んでらっしゃいます

沖縄 総合造園建設業 株式会社桃原農園
造園土木工事からインドアグリーン、観葉植物リース、フラワーショップ、イベントディスプレイまで。花と緑に関するトータルプランナー桃原農園のサイトです。

桃原農園創業、松山王子「尚順(しょうじゅん)」の業績
創業者 尚 順(松山王子)
◆松山王子、尚順の業績

桃原農園の歴史は、琉球国最後の国王、尚泰王の最後の王子、松山王子・松山御殿(まちやまうどぅん)と呼ばれた創業者、尚順の業績を抜きにして語ることはできない。

琉球処分に伴い、父とともに7歳で上京した尚順は、明治25年(1892年)、20歳の時に帰郷。

翌年の明治26年(1893年)には、太田朝敷、護得久朝惟、豊見城盛和、高嶺朝光らとともに沖縄最初の新聞である「琉球新報」を創刊し、明治32年(1899年)には、沖縄銀行を設立することとなる。

他にも沖縄港運を設立するなど、戦前の沖縄における基幹産業の発展に大きく寄与した。
https://www.toubaru-nouen.co.jp/aboutus/history/

琉球王朝がなぜほろんだのかというと、「宗主国を立て、属国として生き残る」方法が時代に合わなくなった為ではないでしょうか。

講談社選書の『琉球王国』によると当時の琉球王国の中には、琉球王国が独力で生き残ることはできないと考える人々も多く、列強に荒らされている清よりは日本の支配下に入ったほうが琉球のためになる、として琉球処分を受け入れたそうです。

小さな国家である限り避けられない事ではありますが、何処か大きな国を宗主国に立て、自らはその属国として生きる国家は過去も多数存在しました。

その意味では、明国の裏付けの元に成り立って室町幕府など、日本も過去は似た状況下です。

琉球も例に漏れず、最初は中国(明国)裏付けの元、海洋貿易国家として存続していました。

薩摩の侵略は、尚寧王が王位についてまだ間もない1609年のことでした。

表向きの理由は琉球が無礼を働いたということでしたが、本音は対明貿易の利益が狙いだったようです。約3000の兵と100隻余の軍船が琉球にさしむけられると薩摩軍を前に王府軍はなすすべもなく、尚寧王は開城して和議を申し入れました。それからの2年間、尚寧王は薩摩・駿府・江戸に抑留され、帰国が許された時 には、琉球はそれまで180年続いた独立国家ではなく、すっかり薩摩の管理下に置かれていました。薩摩は「掟15条」などを定めて琉球の政治・経済をおさえ、その冒頭で薩摩の許可なしに唐へ進貢物を送ってはならない」として、琉球の外交権を奪っ て進貢貿易を管理することを宣言しています。但し、明国との貿易の都合上、侵略征服後も形式的には「琉球王国」を残していました

そのため、首里城が王城であることに変わりはなく、むしろ薩摩藩のために整備を進めた面もあります。

琉球国は明治五年(1872)になって名目上、日本政府に「琉球藩」として併合されました。

この時点で名目上は王国ではなくなるのですが、実際は清への朝貢を続けるなど、琉球王国時代と変わらない態度をとっていました。

ただ、琉球の不幸は、その後、日本にも侵略に合い、中国と日本の両方に属国宣言する中途半端な国家として存続した事です。

ある時は中国に、ある時は日本に・・・その場の状況下で属国姿勢を示さざるを得なかった立場は同情に値します。

では、この微妙な姿勢を打破すれば、琉球王国は現在も存続しえたか?答えはNOです。

例えば・・・もっと強い姿勢で中国の属国たる姿勢を示せば、完全なる中国属国として琉球王国はもう少し長く生き延びたかもしれません。しかし、最後はモンゴル自治区に代表される様に、最後は中国に侵略される事が落ちです。

同じ様に、より日本に偏った属国姿勢を示しても、日本化が早まるだけです。

明治十二年に日本政府は王を東京に呼び出し、強制的に琉球藩を鹿児島県に併合し、その後「沖縄県」としました。

最後の琉球王・尚泰は明治五年の段階で藩王となり、十二年に藩王も辞めさせられてただの華族となりました。

この流れを見ると、江戸時代初めの島津氏の進行以来、段階的に滅亡に向かっていき、明治十二年に完全に滅亡した、と言うことになります。

結局、琉球国の様な国家の存在を歴史が許さなかったと云わざるを得ません。

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