史記荊軻|意味・現代語訳は?書き下し文は?

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漢文の「史記荊軻」の意味と現代語訳について。

中国の書物「十八史略」の一節『荊軻』刺客荊軻の書き下し文は?

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史記荊軻|書き下し文・原文

喜の太子丹、秦に質たり。秦王政礼せず。怒して亡げ帰る。秦を怨み之に報いんと欲す。秦の将軍樊於期、罪を得、亡げて燕に之く。丹受けて之を舎す。丹、衛人荊軻の賢なるを聞き、辞を卑くし礼を厚くして之を請ふ。奉養至らざる無し。軻を遣はさんと欲す。軻、樊将軍の首及び燕の督亢の地図を得て以て秦に献ぜんことを請ふ。丹、於期を殺すに忍びず。軻自ら意を以て之を諷して曰はく、「願はくは将軍の首を得て、以て秦王に献ぜん。必ず喜んで臣を見ん。臣、左手に其の袖を把り、右手に其の胸をEさば、則ち将軍の仇報いられて、燕の恥雪がれん」と。於期、慨然として自刎す。丹奔り往き、伏して哭す。乃ち函を以て其の首盛る。又嘗て天下の利匕首を求め、薬を以て之を火卒(にら)ぎ、以て人に試みるに、血縷のごとくにして立ろに死す。乃ち軻を装遣す。行きて易水に至り、歌つて曰はく「風は蕭蕭として易水寒し 壮士一たび去つて復た還らず」と。時に白虹日を貫く。燕人之を畏る。
軻咸陽に至る。秦王政大いに喜び之を見る。軻図を奉じて進む。図窮まつて匕首見はる。王の袖を把つて之をさす。未だ身に及ばず。王驚き起つて袖を絶つ。軻之を逐ふ。柱を環つて走る。秦の法に群臣の殿上に侍する者は、尺寸の兵を操るを得ず。左右手を以て之を搏つ。且つ曰はく「王、剣を負へ」と。遂に剣を抜き其の左股を断つ。軻、匕首を引き王になげうつ。中(あた)らず。遂に體解して以て徇ふ。秦王大いに怒り、益ヽ兵を発して燕を伐つ。喜、丹を斬つて以て献ず。後三年、秦兵、喜を虜にし、遂に燕を滅ぼして郡と為す。

史記荊軻|意味・現代語訳

喜の太子・丹が秦の人質となっていた。秦王の政治はこれを礼遇しなかった。丹は、腹を立てて逃げ帰り、秦を恨んで、報復しようとしていた。秦の将軍である樊於期は、罪を得て逃れて燕に逃れた。丹はこれを館に受け入れた。
丹は衛の人・荊軻が優れた人物であることであることて聞き、言葉もへりくだり、手厚い贈り物をして彼を招いた。その世話をする様子は至らぬところがないほどだった。 (丹は)軻を(暗殺のために)秦に送ろうとした。軻は、樊将軍の首と燕の督亢の地図をもらって、それを秦に献上したいと願い出た。(脱国者の首と領地の献上で相手を油断させるため)。
丹は期を殺すに忍びなかった。軻は自分の考えで(樊於期を訪ねて)話をした。「秦王に献上するために将軍の首を頂きたい。(そうすれば秦王は)必ずや喜んで私に会うに違いない。 私は左手で秦王の袖をつかみ、右手で其胸を突こう、そうすれば将軍の仇に報いることになり、燕の恥辱を晴らすことにもなる。」と。樊於期は(話を聴いて)決心し憤然と自刎した。
丹はこれを知って駆けつけ、伏して泣いた。函(はこ、おけ)にその首を入れた。 又、以前手に入れた天下に名高い鋭い匕首を、毒薬で研ぎ、試してみると、糸のような血しか流れないのに(毒が入って)たちまち死ぬ。それを身につけて軻を旅立たせた。易水に至って、歌うことには、 <風は蕭蕭と寂しく易水の流れは寒く身に染みる 壮士である私は一度この地を去って(秦に行けば)二度と還ることはないだろう>この時、白い虹が太陽を横切り、燕の人はこれを恐れた。(乱が起こる前兆を感じた。)

軻は咸陽に着いた。秦王・政は大いに喜んで彼に会った。軻は用意した地図の巻き物を広げ始めた。その図が終わろうとすると、隠しておいた匕首が現れた。
軻は王の袖をつかんで刺そうとしたが、剣が届かないうちに、王は驚いて袖を破って立ち上がった。軻はこれを追った。二人は柱を巡って走り回った。
秦の法律では王の側に来る者は、わずかな武器も持つことが許されなかった。(そのため)左右の家来は素手で軻を殴った。
また、「王様、早く剣をお取りなさい。」と言った。王はようやく剣を抜いて軻の左股を刺した。軻(もはやこれまでと)匕首を引き寄せて王に投げつけた。当たらなかった。
遂に軻の体をずたずたに切ってさらした。秦王は大いに怒り、ますます兵を送って燕を攻めた。燕の王・喜は丹を斬って秦に献じた。
その後三年経って、秦の兵は喜を捕らえ、遂に燕を滅ぼし、秦の一部にしたのだった。

史記荊軻まとめ

史記荊軻をわかりやすく解説すると、

中国の戦国時代、燕の太子は、荊軻を刺客として、秦に送り込んだ。殺す相手は、秦王?政(後の始皇帝)である。
暗殺は失敗し、荊軻は殺され、燕も攻められ滅ぼされることになった。

自害したのは、秦から亡命してきた将軍<樊於期>です。なぜ自殺したか?
荊軻が「秦王は、あなたの首を欲しがっています。あなたの首を持っていけば、きっと燕を信用して、気を許すことでしょう。そうすれば隙が生じ、暗殺しやすくなります。将軍の家族を殺した秦王に対して復讐できます。」

荊軻は、柱を回って秦王を追いかけます。やっと刀を抜いた秦王に、桃を斬りつけられて、座り込み、最後の手段と匕首を投げますが、王にはあたりませんでした。こののち壇上に上がって来た秦の家来たちによってバラバラにされてしまいます。


「荊軻」の祖先は『斉』の人で、元々の姓は慶氏とされます。
『斉』では慶氏は有力な大族で衛の人は彼を慶卿と呼んだとされます。
後に『燕』へ行き慶が訛って荊卿と呼ばれたといいます。
「荊軻」は読書と剣術を好み、修練を重ねますが、
『衛』の「元君」に用いられず、
BC242年『衛』の『濮陽』が『秦』に破られた頃、
「荊軻」はこの前後に衛を出たようです。

「荊軻」は『晋陽』近くの『楡次』で、
剣客「蓋聶」の門を叩きますが、相容れず、
『趙』の『邯鄲』で「魯句践」とすごろく賭博で喧嘩し
『燕国』の都・『薊』に流れつきます。

『薊』では犬殺しの男と、
筑の名手「高漸離(こうぜんり)」と友人となり毎日飲み歩いたとされます。
「旁若無人(旁かたわらに人が無きが若ごとし)」
の故事はこれが由来です。

この『薊』で、「田光」という処士の処遇を受け、
土地の有力者である「田光」は、
「荊軻」の見識を認め、賓客として迎えます。

『燕』の「太子丹」は、
国策により『秦』に人質となりますが、
幼い時に『趙』で一緒に人質の辛い日々を送り、
仲の良かったはずの秦王「政」は、
「丹」に冷たく接し、
その居心地の悪さに「丹」は無断で『燕』へ逃げ帰ります。

『秦』はBC230年に『韓』を、228年に『趙』を滅し、
戦国七雄で残った『燕』、『魏』、『楚』、『斉』は、
『秦』の侵攻に戦々恐々とします。

次は逃げ帰った自分の『燕』の順番だと感じた丹は、
「田光」にどうしたらいいだろうかと相談し、
「田光」は「丹」に「荊軻」を紹介します。
その際、「田光」に他言無用を念を押しますが、
「田光」は自分が信用されていない事に憤り、
「荊軻」の面前で自ら首を刎ねて自殺して果てます。

「荊軻」に会った「丹」は、
「田光」を自分の思慮不足で死なせた事を悔やみますが、
秦王「政(始皇帝)」から辱めを受けた復讐のため、
「荊軻」に「始皇帝」暗殺を依頼します。

恩義のある「田光」を死なせてしまい、
何とか恩を返したい「荊軻」は、「始皇帝」の暗殺を受諾します。

「荊軻」は、『燕』の領土で肥沃な土地である『督亢』を割譲する証拠として、
地図を持参するつもりですが、
それだけでは、用心深い『秦』の王宮に入って、
暗殺の機会を得ることが難しいので、
『秦』からの亡命者で、
「始皇帝」が、自分を裏切って出奔したため、一族を皆殺しにし、
首に金千斤と万戸の食邑を捕縛の懸賞金を掛けるほど憎んでいた、
「樊於期」の首を持参しようとします。

「樊於期」は、自分の首で恨みのある「始皇帝」の暗殺が実行できるならと、
自らの首を喜んで差し出します。
「荊軻」を信用しきれていない「丹」は、「秦舞陽(しんぶよう)」という、
13歳で人を殺めたという若者を添え役として同行させるように求め、
「荊軻」は「樊於期」の首と地図をを手土産に『秦』に向かいます。

出発の日、
重臣は白い喪服を付け、
易水のほとりに「荊軻」を見送り、
「高漸離」は、
筑を鳴らし、「荊軻」は歌います。

風 蕭蕭(しょうしょう)として 易水(えきすい)寒し
壮士 一たび去りて 復(ま)た還(かえ)らず

「始皇帝」は、「樊於期」の首と『督亢』の地図が届いた事を喜び、
朝廷で正装をつけ、九賓の礼で咸陽宮で引見します。
「始皇帝」は、自らに対する度重なる暗殺未遂などで、
非常に警戒心が強く、
自分と謁見する者には寸鉄(つまり武器)も帯びさせないようにしました。
「秦王」に拝謁する「荊軻」は、
一計を案じて、
献上品である巻物の地図の中なら検められることもないだろうし、
長細い匕首も隠せるので、地図の中に忍ばせます。
匕首は『趙の徐夫人』の匕首と呼ばれる名刀で、
一筋の傷を付けるだけで死なす事のできる毒薬を染み込ませた物でした。

「秦舞陽」は「始皇帝」の前に出ると、顔色が変わって震えおののきますが、
「荊軻」は涼しい顔で前に進み出て、
「秦王」が地図を求めると、
中に隠してあった匕首で「始皇帝」に斬りつけます。
咄嗟の事で護衛兵が対応できない事を尻目に、
「荊軻」はあと一歩のところまで「始皇帝」を追い詰めますが、
すんでのところで失敗し、「荊軻」は無残に殺されます。

BC226年、『秦』は「丹」を追討するために『燕』へと侵攻、首都『薊』が陥落。
燕王「喜」は遼東に逃れて、「丹」の首を『秦』に差し出して謝罪しますが、
BC222年に燕王「喜」が捕らえられ『燕』は滅びます。

「高漸離」は名を変えて「荊軻」の敵討ちのために「始皇帝」に近づきますが、
正体が発覚します。
「始皇帝」は彼の筑の腕を惜しみ、
目を潰しただけですませ、近くに置きますが、
「始皇帝」が油断した時に、
「高漸離」は筑に鉛を仕込んで重さを増したもので襲いますが失敗、
結局殺されます。
それ以後、「始皇帝」は生涯を通じて、
諸侯の国から来た人々を近づけることはありませんでした。

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