横山やすし死因は晩年の酒?

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横山やすしさんは天才ながら破天荒で仕事をすっぽかすなど、酒でのトラブルは数知れずの伝説の漫才師。

晩年は表舞台から姿を消したまま帰らぬ人となってしまいましたが、横山やすしさんの晩年は?死因は酒?

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横山やすし死因は晩年の酒?

横山やすしさんは1996年1月21日の夜、自宅で寝たまま意識を失っているところを啓子夫人が発見

救急車で病院に運ばれたが、すでに心肺停止の状態で意識が戻ることなくそのまま亡くなっています。

横山やすしさんは死去前日には大量にビールを飲んで吐き出すと、

「水を欲しい」
「ちょっと調子がおかしいから病院に行かんとあかんなぁ」
「明日病院に行くわ」

と話していたそうですが、これが夫人と娘に対して最後の言葉となりました。

横山やすしさんの死後、遺体は高槻市にある大阪医科大学で行政解剖され、死因は「アルコール性肝硬変」と判明、さらに血液からもアルコールが検出されたそうです。

その死をさかのぼること10数年前、仕事先の徳島県で吐血し、医師から「このまま飲み続けたらあと10年で死にますよ」と酒を止めるよう宣告され、1994年頃から腹水が溜まるなど体調が悪化していたというから、やっさんはもうこの頃から肝硬変に冒されていたのだろう。
医師の予言通りのアルコール依存による典型的な死だった。

横山やすしさんは絶頂期には5億ものお金を稼ぎ、長者番付にも名を連ねていましたが、1986年には相方の西川きよしさんが参議院議員に当選するなどコンビの仕事も減っていきます。

横山やすしさんは、相方の政界進出を “裏切り” と強く反発。

漫才でステージに立つこともできない横山やすしさんでしたが、芸人としてのプライドか派手な生活を続け、趣味にのめりこんでいきます。

ピンの仕事も上手くは行かず、酩酊しながらの番組出演、番組での暴言、番組のドタキャンなどに加えタクシー運転手への暴行、飲酒運転などを重ね、遂には吉本興業を解雇。

酒に依存し、ボートレースに溺れ、風の会から出馬した参議院選挙にも落選、仲間内にも見放されて、失意の晩年をおくることになった。

皮肉にも、落選の際に発言した「国民はアホや」が流行語に。

さらに何者かに殴られ言語障害になる致命傷を追い、その後、死ぬまで漫才の舞台に上がることはありませんでした。

晩年は収入がないうえに体を壊して弱気になっていたそうです。

【西川きよし号泣】やすしへ涙の弔辞

■相方の西川きよしからの弔辞

 「きのう番組で、三枝さんと、ノックさんと、ざこばさんと、きん枝君みんなと会いました。番組が終わったあと、みんなで飲んで、自分(やすしのこと)のことボロクソに言うたで。ほんま早う逝ったなあ。
 自分、よう わしが泣いてると 『泣いたらかんでー。きー坊、泣いたらかん。よお泣くなー、しかし。どこにそんねん涙あるねん。』 て言うてたな。
 わしも昨日までは泣かんかったんやけど、さっき漫才のビデオ見たらおもろい漫才やった。自分でもおもろいと思う。おもろいと思たら泣けてきたわ。
 (…中略…)若いときは『人生山あり谷あり』て言われても、よう わからんかった。でも、ほんまに 『山あり谷あり』 て自分に教えてもろたわ。
 師匠に新しくコンビ組むかて言われて、喫茶店で会うて、一言『横山や』いうたな。吉本も小さな会社やから。わしも名前くらい知っとったわい。
 そんとき、『わし、自分と漫才せな困んねん。頼むで。』 いうたな。最初っから強引やった。
 41年にコンビ組んで、42年に新人賞もろて。2人でいろんな賞もろたなー。それもこれも自分のおかげや。わしもがんばったけど、自分のおかげや。
 コンビ組んで5年目やったかなー、京都の交番の前で、茶色の背広がボロボロになるまで殴りおうたの覚えてるか?。何であのとき、お巡りさん止めてくれんかったんやろな。たぶん2人とも漫才に対して真剣やったから止めれんかったんやと思うわ。
 (…中略…)テレビも冷蔵庫もみんな月賦で、これからがんばろうと言うときに、自分が事件起こして目の前真っ暗で、2年4ヶ月の判決受けて、自分、一升瓶持ってわしの家にきたな。
 わしの嫁はんと3人ですきやき食うて『きー坊、わしのことはええ。わしのことはええから他の人と漫才やれ』て言うてくれたな。でも、わしは待ちたかったんや。ずっと待った。ほんまに。待って良かったわ。
 帰ってきたら、プロポーズ大作戦とか ええ仕事もろて、そしたらまた事件や。吉本の人も 『新しい相方見つけて漫才しいや』て言うてきて。『さすが吉本やな』 て言うて2人で笑ろたな。
 そやけど、売れるきっかけ作ってくれたんは自分や。『そんなこと出来ません』 言うたら、『なんで言うこときかへんねん。それやったらお前も首や』 て言われて…。『岡八郎と組んで 奥目と出目でやれ。』 と言われたときは、わし、ほんまはやろかと思ったんや。
 2歳年下のわしが言うのもなんやけど、自分、ほんま憎めんかったわ。それは本当、自分の人徳や。
 自分よう怒ってたな。なんでそんなに怒こんのかと思うくらい。でも、自分がなんで怒ってるのか、わし全部知ってたで。
 あと、約束を守ってくれたこと。うれしかった。わし、 自分とこの嫁はんにも言うてない。自分おしゃべりやて言われてたけど最後まで約束守ってくれたな。(注:2人だけの誰にも言えない秘密があったようである。詳細不明)。
 それから心配やろ、嫁はんのこと、子供のこと、特に光ちゃん(やっさんの次女)のこと。わし必ず相談に乗らしてもらうわ。
 影になり、支えになってもろたな。お礼言うわ。ありがとう。さっきも師匠のノックさんが言うてたけど、もうゆっくりしーや。何にも考えんと、ゆっくりしーや。わしもなるべく早ようそっちには行かんようにするわ。ゆっくりしーや。ほなな。」

横山やすしwikiプロフィール

名前:横山やすし

本名:木村雄二(きむら ゆうじ)

生年月日:1944年3月18日

出身:大阪府堺市

身長:163cm

高知県宿毛市沖の島にて、旅館で仲居のアルバイトをしていた小川姓の島民女性と、島へ巡業に来た旅回り芸人一座の団員との間に私生児として生まれる。

生後三ヶ月から大阪府堺市堺区に育つ。

中学2年の頃に出演したラジオの素人参加番組「漫才教室」がきっかけで、1959年堺市立旭中学校卒業後、芸人を志します。

同級生の岡田好弘さんとともに、「堺伸スケ・正スケ」として1959年5月に角座で少年漫才師としてデビュー。

2年で相方の正スケが廃業したことでコンビを解散し、エンタツから続く漫才の名門屋号「横山」への憧れがあったことから、横山ノックさんの内弟子となり「横山やすし」という芸名を与えられました。

『横山やすし』の芸名を与えられ、同時に吉本興業に移籍する。

数回、コンビ結成~解散を繰り返したのち、1966年、2人は「やすしきよし」のコンビ名でデビュー。

当初はコンビ仲が悪く、稽古のことできよしと揉め、背広がボロボロになるほどの掴みあいの喧嘩になることもあった

短気な性格から、何度もコンビ別れを繰り返していた横山やすしさん。

「きよしは化ける」と確信し、何度も相方になれと迫ったそうです。

コンビを打診された西川きよしさんに、周囲は「やすしくんとだけはやめとけ」。

しかし、きよしさんも、吉本新喜劇の花形スターと身分違いの結婚をして、後がない状態でした。

他の漫才師がやっていない「動き」を漫才に取り込むというスタイルを編み出し、一躍注目されるようになった。

やすきよは、この新しい漫才の形で、1970年には第5回上方漫才大賞を受賞、その地位を不動のものとします。

横山やすしの結婚した嫁は木村啓子さん

横山やすしの結婚した嫁の名前は木村啓子さん

横山ノックさんを仲人に、1975年3月に大阪西区の大鳥大社で挙式し結婚。

お互い再婚で啓子さんには一男一女の連れ子がいました。

横山やすしの収入がほとんどなくなると、啓子さんは生活のために、NHKの集金のパートアルバイトなどをして生活費を稼いでいたそうです。

横山やすしが体調を崩し精神的に辛い時にも、啓子さんが陰で支えていましたが、やすしさんの死から13年経った2008年、ちょうどやすしさんの13回忌の打ち合わせをしていた啓子さんは心筋梗塞を起こし、自宅で亡くなっています。

やっさんの妻・木村啓子さん死去
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