「四面楚歌」、項羽にとって「楚歌」とは?#ことば検定

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6月23日の「グッドモーニング」内のクイズ「ことば検定」で出題された問題は「「四面楚歌」、項羽にとって「楚歌」とは?」でした。

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朝日新聞出版

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答え:「四面楚歌」、項羽にとって「楚歌」とは?【ことば検定】

青:敵国の勝利の歌
赤:母国の歌
緑:

答え:母国の歌(赤)

項羽  (紀元前232年から紀元前202年)
正式には項籍。姓は項、名は籍、字が羽である。一般的には項羽の名で知られている。
秦末期の楚の武将。楚の将軍だった項燕の孫といわれている。項氏は代々楚の将軍を務めた家柄であった。
紀元前209年に会稽に挙兵し、圧倒的な強さで、秦に対する造反軍の中核となり、20万を超える秦の大軍と決戦、大勝した。これにより各国の軍の指導者達は項羽に服属した。

漢の高祖劉邦(りゅうほう)の部下の王陵の批評に、項羽は礼儀正しいが功臣に褒賞をやるのを渋り、高祖は無礼だが物惜しみをしないといっている。こんなところに項羽の敗北の遠因があったかもしれない。この覇権争奪は郡県か封建かをめぐる争いであり、羽の敗北は歴史上一つの画期となった。羽は保守的立場にあったが、伝えられる悲劇の英雄像は民衆の封建制に対する挽歌(ばんか)ともいえよう。最後の決戦となった垓下(がいか)の敗北ののち死んだ項羽は、いまだ31歳であった。

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