篤姫に子供は?徳川家定の正室

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篤姫は徳川13代将軍・徳川家定の正室。

史実では江戸無血開城を成し遂げるのに貢献した一人となりましたが篤姫には実の子供はいなかったのでしょうか?

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篤姫に子供は?徳川家定の正室

篤姫は徳川家定の正室ですが、正室として相応しいのは家柄が良くて丈夫な子供を産めそうな女性です。

そういった中で島津家が将軍家の外戚として力を得るために「薩摩の女は良いよ~」ってことで話しをまとめます。

でも島津家には年頃の娘がおらず、親戚から養女を貰って嫁入りさせます。それが篤姫でした。

篤姫は島津家と将軍とのパイプ役を託されて嫁入りし、和宮は政治的な理由で格下の将軍家に嫁入りさせられます。

家定は篤姫との間に子供は生まれませんでした。

だけでなく、側室との間に子供が生まれた記録もありません。

篤姫は出産経験もなかったと思われます。その代わり、14代家茂の義理の母です。

家定と家茂に血縁上の親子関係はないにしても、13代将軍の御台所は、14代将軍の義理の母になっています。

家定は子供の頃から祖父に命を狙われ、長じてからも毒殺の危険に晒されもともと病弱であったものが、将軍位を継いだ後はさらに体調が悪くなり、ほとんど廃人に近かったとも言われています。

徳川家定は脳性麻痺にかかっていたとも言われています。

そのためか人前に出ることが不得手であり、乳母の「歌橋」(うたはし)にだけ心を開いていたとも伝えられているのです。

ちなみに、第12代将軍の父・徳川家慶には4人の子供がいたのになぜ四男の徳川家定が将軍になれたのかというと3人の兄が全員亡くなっていたため、徳川家定が継嗣候補に挙げられたからです。

篤姫が輿入れしてから2年で家定は亡くなりましたが期間が短かっただけでなく、家定の体調(病状)から実質的な夫婦生活はほとんどなかったと思われます。
(あるいは家定に生殖能力はなかったかもしれません)

ちなみに、徳川将軍のなかで正室との間に子をなしたのは非常に少なかったのです。

1.秀忠、お江与(家光、忠長、千姫、和子など)
2.家宣、熙子(二人いたが夭折)
3.吉宗、真宮理子(死産)
4.家治、倫子女王(千代姫=夭折)
5.家斉、寔子(敦之助=夭折)
(このうち、2.3.は将軍あるいは将軍継嗣と決まる以前に生まれたものです。)

くらいで、その中でも将軍と御台所の間に男子が生まれたのは
秀忠、江与と家斉、寔子の二例だけでした。
(この二人の御台所は二人とも武家出身です。)

将軍と御台所の間に子供が生まれることが少なかった原因として
1.御台所は摂関家や宮家の出身が慣例となっていたが
公家や宮家の血が将軍家に入ることが嫌がられた。

2.将軍は何人でも側室を設けることができた。
このため、正室である御台所は何人もの女性の一人となり
子供ができる可能性が低かった。

3.御台所は家柄などから決められた、いわば押し付けられた相手なので
気が進まなかった、好きになれなかった。
(好きな側室をいくらでも選べた)

4.御台所が一定の年齢になると、夜の相手をするのを禁じられた。
(これは、子供ができる可能性を下げないためだとされています。)

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