御用盗wiki|読み方は?薩摩藩邸焼き討ち事件

スポンサーリンク
当サイトはアフィリエイト広告を使用しています。
デフォルト 0未分類

御用盗とは?読み方は?

薩摩藩の江戸藩邸が江戸市中取締の庄内藩新徴組らによって襲撃され、放火により焼失した事件にも深くかかわっているとされる御用盗とは?

スポンサーリンク

御用盗wiki|読み方は?薩摩藩邸焼き討ち事件

御用盗とは主に幕末に続出した強盗の事です。読み方は「ごようとう」

関東各地の尊攘派に顔が広かった下総郷士の相楽総三が募った浪士たちの集団で高い志を持つ者もいましたが、ゴロツキや博奕打ちも混じっており、まさに玉石混交の集団でした

攘夷を大義名分として

「我々は尊王攘夷の志士である攘夷を決行するにも先立つものが必要だ。貴公のお店は繁盛している様子。

願わくば我等に軍資金を調達して頂きたい。もし、断るならば国賊と見做し、貴公ら全員に天誅を加える。」

等と脅して金を巻き上げていた連中です。

御用盗には本物の志士もいて断った為に本当に殺されたお金持ちもいましたが、多くは志士を騙った偽物です。

さらには辻斬り、放火と暴れまわったので、江戸の治安は極度に悪化してしまいました。彼らは薩摩御用盗と呼ばれて恐れられました

それ等を取り締まる為に新選組などが捕縛していました。

尚、偽物の代表として仏生寺弥助と言う人物がいます。

この弥助は元々は江戸の剣術道場では相当強かった人物ですが身持ちが悪く、京都に行って偽攘夷活動をして今の大丸百貨店の前身の店に脅しをかけて、本物の攘夷活動をしていた長州藩士に殺害されています。

江戸薩摩藩邸の焼討事件では鉄砲や槍などで武装した50名が御用盗のため同藩邸の裏門から外に出たところ、かねてより見張っていた新徴組に追撃され、賊徒は散り散りとなって薩摩藩邸へと逃れた。

賊徒側も反撃に及び、12月22日の深夜、新徴組が屯所としていた赤羽根橋の美濃屋に30人あまりの賊徒が鉄砲を撃ち込んで逃走、薩摩藩邸に逃げ込んだ。翌12月23日には 春日神社前にある庄内藩の屯所として使われていた寄席の「吹貫」に鉄砲が撃ち込まれ、その亭主と使用人の2名が死亡した。

まとめ:御用盗wiki|読み方は?薩摩藩邸焼き討ち事件

大政奉還前に薩長芸の討幕挙兵計画があり、益満休之助、相楽総三が薩摩の命を受けてこれに呼応する浪士が江戸の薩摩藩邸に集められていました。

彼らは御用盗と名乗り江戸の町を荒らし、怒った庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ち、これが鳥羽伏見の戦いへの導火線となりました。

幕府に挙兵させるために西郷の挑発だったという俗説が定説のように囁かれますが、薩摩では江戸の浪士たちに自重するよう勧告しており、薩摩の、ましてや西郷の命でもなく、単に浪士たちの暴発でした。

タイトルとURLをコピーしました