人斬り抜刀斎 実在モデルは河上彦斎?緋村剣心@るろうに剣心

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人斬り抜刀斎には実在モデルがいる?

「るろうに剣心」で主人公の緋村剣心は明治維新が成立する前の幕末で人斬り抜刀斎の異名がありましたが人斬り抜刀斎は実在の人物がモデルとなっているのでしょうか?

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人斬り抜刀斎 実在モデルは河上彦斎?緋村剣心@るろうに剣心

るろうに剣心に出てくる人斬り抜刀斎は実在した人物ではないもののモデルとなったのは「河上彦斎」と言う佐久間象山を斬った人斬りです。

「幕末4大人斬り」の1人で背が低く抜刀斎ではないですが「人斬り彦斎」と呼ばれていました。

攘夷思想を持つ彦斎が開国を推し進める新政府に従わなかったための斬首ともみられる。

裁判では「新政府の方針に従い共に働いてはくれないか」と何度も説得されるが、

尊攘を夢見て共闘してきた仲間たちのことを思うと志を曲げられないと、断固拒否した。

ちなみに、剣心の本名は比古に拾われるまでの名前が幼名の「心太」。比古に拾われてからは「緋村剣心」は正式な本名になりました。

「彦斎の斬殺剣は右足を一歩前に踏み出し、左足を後ろに伸ばして、膝が地につきそうな低い姿勢から右手だけで敵の胴をなぎ払う独特の剣法であった。」という、独特の片手切りだったようで、抜刀術ではないようです。

流浪人が造語ですから、人斬り抜刀斎も、創作でしょう。

人斬り抜刀斎 実在モデルの河上彦斎wiki

天保5(1834)~明治4(1871)

○出身地・熊本城下

○父・小森貞助、母・和歌

○通称「彦次郎」「高田源兵衛」

○墓・東京都品川区東海寺少林院

河上彦斎は肥後藩士・小森貞助の子として生まれ、幼いうちに同藩の河上源兵衛の養子となった。
16歳で細川家の花畑邸の掃除坊主となり、さらに家老付きの坊主となった。顔色が青白く外見は女性のようだったそうです
彦斎は後に人きりとなるわけですが岡田以蔵や田中新兵衛とは違い知識人でした。
愛国者である儒者。轟武兵衛に儒学を学び、兵学を吉田松陰の友人である宮部鼎蔵に、熱狂的な国粋・敬神思想の持ち主である林桜園には国学を学んだ。このように勉強熱心だった彦斎は和歌を作り正確な漢文を書くくらいお手の物であり彦斎の生き方も論理的な裏付けがあった。
そして、先ほど書いた3人の先生によって彦斎は尊皇攘夷思想を純粋培養させ、一生その思想を曲げることはなかった。
彦斎22歳の時、江戸が大地震におそわれた。この地震は安政の大地震と呼ばれるもので水戸では藤田東湖が死亡した。肥後藩邸にいた彦斎は水桶と柄杓を持ち火鉢に水をかけて回ったといわれる。冷静な人物である。
細川家は代々徳川家に引き立てられてこのころは54万5千石の大身であり当然ながら時局に消極的で動きが鈍い。しかし、彦斎はそんな藩から脱藩しなかった。ただじっと、耐えながら尊皇攘夷活動を行った。やがて、三条実美や姉小路公知らが長州と組んで尊攘の気配が強くなると彦斎は評価されて京に上り肥後勤王党の幹部格として認められるようになった。
このころは「天誅」がはやっており田中新兵衛や岡田以蔵などが暗殺に奔走していた。彦斎自身もこのころ、数多くの人を切ったそうだが誰を切ったかなどの記録は残っていないそれだけ証拠を残さずに暗殺したというのはやはり、緻密な計画を立てることのできる人物であることが現れている。しかし、彦斎は竹刀の試合ではいつも負けていたそうだ。新選組局長の近藤勇もそうだったらしいが真剣を持つとすごみがあったそうな。彦斎の斬殺剣は右足を一歩前に踏み出し、左足を後ろに伸ばして、膝が地につきそうな低い姿勢から右手だけで敵の胴をなぎ払う独特の剣法であった。
しかし、8月18日の政変が起こったため彦斎は七卿とともに長州へ落ちた。そして、池田屋騒動の直後再び上洛。長州藩のスパイとして。
このころ、佐久間象山が朝廷の海陸防備御用として活躍しておりこれは攘夷派にとって許されないことであった。象山は京都の木屋町三条上る、高瀬川に沿ったとおりの路地の一角に仮寓していたが付近で待ち伏せしてこれを急襲した。元治元年(1864)7月11日午前5時のことである。因州藩士・前田伊左衛門と壱岐・松浦虎太郎の二人がまず両側から馬上の象山を襲い、象山は左股に傷を受けながらも馬腹を蹴った。走り出した馬の前に彦斎が立ちふさがり、象山は落馬したがその一瞬に腹部を横様に切り裂かれた。象山暗殺は見事に成功したのだが彦斎はこのとき「髪の毛が逆立つ思い」をしたそうでそれ以来暗殺は行っていない。そうだ。
まもなく、蛤御門の変で長州は敗北しこれに加わっていた彦斎は長州へ逃亡した。長州では恭順派の俗論党が勢いを盛り返し、これを高杉晋作らがクーデターを起こして押さえ、第2次征長戦が始まる。彦斎は石州口を守り長州が大勝すると海路をとって肥後・八代に帰った。しかし、肥後藩は帰ってきた彦斎をとらえて投獄した。勤王派はこのころ弾圧されていたのだ。ところが、それから1年半ほどで大政奉還が行われそして、鳥羽伏見の戦いで幕府軍が敗れ時代は逆転し、幕府が朝敵となった。
肥後藩はあわてて勤王組を解放し、藩の役人に登用した、彦斎も書役兼軍事掛を命じられたがこれを拒否した。ただし、肥後藩と朝廷・薩長間のパイプ役を務めることになった。肥後藩には彦斎のほかに他藩に顔が利くものがいなかったからでありこのとき彼は「高田源兵衛」と改名した。これは、藩主から暗殺の過去を隠すために改名せよと命ぜられたためである。
その後、彦斎は中山道、東北地方の諸藩を視察し、遊説して回った。肥後藩としては諸藩を説得して朝廷になびかせ点数を稼ぐつもりであった。途中、松代藩にも立ち寄った。大いに歓迎されその宴席で松代藩士の一人が「当藩には佐久間象山という先覚者がいました。しかし、貴藩の河上彦斎に暗殺されました。その息子の格次郎は仇討ちのために国をでています」といい、すると、彦斎は「そうでしたか、私は河上彦斎をよく知っています。大変な腕前ですが孝子の本懐を遂げさせてやりたいものです」と眉一つ変えずに答えたそうだ。彦斎に同行していた佐々順次郎の目撃談である。
このたびから京に帰ると朝廷は攘夷から開国へと方針を変えていた。これに彦斎は怒った。三条実美、木戸孝允らを訪ねては路線変更を責め、翻意を促した。とにかく、有名なヒトキリ彦斎である。誰も会わなくなってしまった。
つまり、彦斎は政治の要諦が変節にあることを想像もしなかった。依然として、尊攘思想を信じ続けていたのである。
彦斎は肥後に帰り飛び領である豊後・鶴崎の兵士隊長に左遷された彦斎のような「肥後モッコス」が熊本城下にいるのは困るからだ。朝廷では彦斎を集議員徴士に任じようとしたが方針が変わった朝廷につとめる気持ちは彦斎にはなく、とにかく尊攘でなければ認めようとはしなかった。そうでなければ、尊攘のために死んでいった志士たちも報われないと考えたからである。
後に、彦斎は長州から逃亡してきた大楽源太郎という男をかくまった罪で東京の伝馬町の牢に入れられた。東京ではなんの尋問もなく明治4年(1871)12月4日に首を切られた。38歳。
木戸孝允が陰謀を企てるといけないので死刑を主張したために、死刑にされたという。

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