遣唐使の廃止理由|894年に菅原道真

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遣唐使を廃止した理由は?

894年に菅原道真はなぜ遣唐使を廃止にしたのですか?また遣唐使廃止後も、日本と大陸中国の交流自体は続いた理由は?

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遣唐使の廃止理由|894年に菅原道真

遣唐使の廃止理由は直接的には、894年に遣唐使に任じられた菅原道真が遣唐使の停止を申し出て、それが認められたことです。

630年に始まった遣唐使は、奈良時代には約20年に一度派遣され、進んだ文化や技術を日本に取り入れてきましたが菅原道真が停止を申し出た理由は、唐にいた日本の留学生から唐の国情が乱れており、遣唐使の生命の危険がさらに増大しているため、派遣はしない方がいいという意見を聞いたためです。

894年に第20回の遣唐使が決まったものの、第19回遣唐使は836年と60年近くも派遣が途絶えていました。

遣唐使廃止の背景の主なものは次の3点と考えられます。

1.849年から唐の商人が多数入国して、唐の文物が国内にたくさん入ってきていたことと、日本からも交易船が唐に渡っていて、朝廷がわざわざ大船団を組んで出かけていく必要がなくなったこと。
2.875年~884年の黄巣の乱で唐が乱れ、880年には黄巣が長安に入城するなどしたため、正常な外交ができる情勢ではなかったこと。予想の通り、907年に唐は滅びました。
3.日本国内の唐風文化はピークを過ぎ、国文学など日本独自の文化が花開こうとしていたこと。

主に、唐がすでに疲弊していて治安が不安定だったことから、遣唐使を派遣する必要がなくなっていたと考えられていますが、陰謀論ももちろんあります。

藤原氏の側から見た場合、道真(当時は参議)は自分達の門閥を脅かす存在に見えたにも拘らず宇多帝の信頼が厚かった事から排除出来ずに、代わって出て来たのが遣唐使への横滑り人事だったと思われます。

まとめ:遣唐使の廃止理由|894年に菅原道真

遣唐使とは、日本から唐(現在の中国)に派遣された使節団のことを指します。

当時、唐は文化や技術面で日本よりも先進的だったため、日本は唐から多くの文化や技術を取り入れていました。

遣唐使は、このような文化交流を目的として派遣され、多くの文化的影響をもたらしました。

菅原道真が遣唐使の廃止を決定した理由をまとめると、以下のとおりです。

■外交上の問題
遣唐使は、唐との外交関係を維持するために派遣されたものでした。しかし、唐の政情不安や内部抗争の激化により、使節団が危険にさらされることが多くなりました。このため、遣唐使を廃止することで外交上の問題を回避することができると考えたのです。

■財政上の問題
遣唐使は、膨大な費用がかかる行事でした。日本政府は使節団に必要な品物を用意するだけでなく、使節団が唐に贈る品物や貢納金なども支払わなければなりませんでした。これらの費用が国家財政に大きな負担をかけることになったため、廃止することが決定されたのです。

以上のように、菅原道真が遣唐使を廃止した理由は、外交上の問題と財政上の問題が主な要因でした。

【ポイントまとめ】
・遣唐使は唐との文化交流を目的として派遣された使節団
・菅原道真が遣唐使を廃止した理由は、外交上の問題と財政上の問題が主な要因
・遣唐使の廃止により、日本は自己の文化・技術を発展させることができた

教科書的には「唐がすでに衰えていたから」というのが正解ですが実際にはそれは建前上の理由という説もあります。

律令国家である唐では貿易はすべて国の管轄下で行われていました。

つまり民間人による自由な貿易はかたく禁じられていました。取り締まりも大変厳しかったようです。

唐の律令制をモデルにした日本も当然ながら私貿易は禁止です。つまり当時、唐と日本の交流は公的なものしかありません。それが遣唐使船です。

道真は民間船のことは知っていました。廃止の建議書の冒頭には以下のように記されています。
「在唐中の僧中?が昨年(893)三月に商人の王訥らに託して送ってきた記録を見ましたところ、唐の国力の衰退している様が詳しく記載されていました・・・」

安史の乱からすでに100年以上たっているわけですから唐の衰退は当然わかっていることですがそれよりも商船の往来が公然の事実だったということでしょう。

朝廷にしてもわざわざ大金を投じて今さら遣唐使船をだすメリットはなにもありません。

かといって朝廷に対して「お金がもったいないからやめましょう。(私貿易は認められていないのに)民間船があるからやめましょう。藤原氏の言いなりになるのはやめましょう」とは言えません。

それを道真が朝廷のメンツをつぶさず、藤原氏にも反論させないように唐の衰退と治安の悪化を理由に中止を提案したものですから朝廷としては、「道真よくやった!!」となったわけです。

そのことにより道真は大出世するわけですが藤原時平の陰謀により大宰府へ左遷されてしまいます。

道真の死後、京都で病や災害がおこったため人々は道真の怨霊のたたりではないかと鎮魂のために神社を建てて祀りました(北野天満宮)

遣唐使の廃止理由|遣唐使を派遣していた当時の日本の事情

遣唐使とは、日本が7世紀から9世紀にかけて唐(現在の中国)に派遣した外交使節のことです。

遣唐使を派遣していた当時の日本の事情は、以下のようなものでした。

  • 唐は東アジアに広大な領土を持ち、律令制や文化などで先進国でした。
  • 日本は唐から律令制や文化などを学びたいと考えていました。
  • 日本は白村江の戦いで唐と新羅に敗れた後、新羅と対抗するために唐と友好関係を築きたいと考えていました。
  • 遣唐使は約20回派遣されましたが、その中で最も有名なのは犬上御田鍬や薬師恵日などです。

以上が、遣唐使を派遣していた当時の日本の事情です。

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