三原山噴火で人影の正体は?クラフト夫妻?

スポンサーリンク
当サイトはアフィリエイト広告を使用しています。
デフォルト 0未分類

三原山噴火の最中、映像の中に人影らしい物が写っていますがその正体は?

三原山の噴火口付近にいた人影は本当に人なんでしょうか?クラフト夫妻?

1986年11月21日 伊豆大島 三原山噴火【まいにち防災】
スポンサーリンク

三原山噴火で人影の正体は?クラフト夫妻?

三原山噴火で映像の中に人影らしい物が写っていますがその正体については全く分かっていません。

島の人でなく マスコミでもない単独旅行者なら巻き込まれて死亡していても遺体が見つからなかったら解りません

ちなみに、フランスの火山研究者であるクラフト夫妻は噴火する火山でたびたび目撃情報があります。

生涯で足を運び調査した火山の数は184か所にもなるそうです。

三原山噴火とは?

1986年11月15日に噴火活動が始まり、19日頃に内輪山を越えて溶岩が流れ下りました。その様子は御神火茶屋から見ることが出来ました。その後噴火は小康状態となり、観光客も詰めかけて伊豆大島の観光は大いに潤ったのですが・・。

不穏な兆候は21日正午過ぎから始まりました。外輪山内部(カルデラ北部付近)で地震が多発し始めます。震源は非常に浅く、御神火茶屋付近でも突き上げるような揺れが頻繁に感じ始めました。そして、午後4時15分頃、大音響とともにカルデラ内部から割れ目噴火が始まりました。その様子はそのとき取材に詰めかけていた報道各社が撮影しています。割れ目噴火はカルデラ内だけではなく、外輪山の外側にまで及びました。その溶岩流は元町に向けて流れました。

あの日は、テレビ番組は伊豆大島大噴火一色だったと記憶しています。そのときの映像は、YouTubeなどにあったと思いますので、探してみてはいかがでしょうか。

なお、その大噴火以降、三原山は静かな状態が続いています。過去の歴史から、100~200年ごとに大噴火を起こし、30~50年周期で中規模噴火を繰り返しているようです。小規模噴火は10年に1回程度のようです。すでに26年間沈黙を保っています(1990年代中頃にごく小規模な噴火活動はあった模様)ので、そろそろ目覚めてもおかしくない時期に来ているのではないかと思われます。

1950-51年(昭和25-26年)の噴火は火口の北東にある標高754mの剣ガ峰が最高峰であったが、火口の南部にこれより高い三原新山ができた。噴火から2か月後に溶岩は内輪山を越えてカルデラに流れ出した。三原新山は竪坑状火孔再生に伴い、北半分が陥没して失われている。噴火そのものは中規模(噴出量数千万トン)の噴火であった。

1986年(昭和61年)の噴火

外輪山外の北西山腹からも割れ目噴火が始まり、溶岩が斜面を流れ下り3,000人が住む元町集落に迫った。

この溶岩は最終的に元町の人家から数百mまで迫る。

割れ目噴火は北西側に伸びたため、当初は島南部への避難が行われたが、地震活動が南東部へ移動したことや波浮港周辺での開口割れ目が確認され、噴火のさらなる拡大が懸念されたことで、全島避難が行われた

玄武岩質マグマで日本では富士山と三原山だけです、ですので割れ目噴火でカーテン状に吹きあげ噴火します。

まとめ:三原山噴火で人影の正体は?クラフト夫妻?

三原山噴火で人影の正体はクラフト夫妻ではないかという噂もありますが、根拠となる資料や情報は何もありません。

クラフト夫妻とはカティア・クラフト(Katia Krafft)とモーリス・クラフト(Maurice Krafft)というフランスの火山学者・地球科学者

カティア・クラフトは1942年4月17日に生まれ、モーリス・クラフトは1946年3月25日に生まれました。1991年6月3日、日本の雲仙岳での調査中に火砕流に巻き込まれて亡くなりました。

クラフト夫妻は火山の写真撮影と映画撮影のパイオニアとして知られており、危険な溶岩流の足もとまで進んで火山の映像を記録していました。彼らの映像は世界的に評価され、生涯で184か所の火山を調査しました。

2人はストラスブール大学で出会い、火山の噴火の写真を撮ることから火山観察者としての経歴が始まりました。その後、世界中を旅しながら火山の映像を記録し、多くの火山学者の尊敬と羨望を集めました。

彼らの業績は火山の脅威にさらされた自治体の協力を得るのに貢献しました。

彼らは避難勧告を行ったにもかかわらず、コロンビアのネバド・デル・ルイス火山の噴火では政府の無関心により大惨事が起こりました。一方、インドネシアのマキアン島のキシ・ベシ火山では避難勧告を行い、政府はそれを受け入れて全島民を避難させることができました。また、フィリピンのピナトゥボ山の噴火活動が始まった際には、クラフト夫妻が撮影したビデオが地元住人に避難の必要性を理解させる役割を果たしました。

モーリス・クラフトは、自身が火山に接近して死ぬことを恐れていないと語っており、23年間のキャリアでさまざまな噴火を見ることができたことを誇りに思っていました。しかし、1991年の雲仙・普賢岳の噴火で彼らは予期しない火砕流に襲われ、カティアとモーリスの命を奪いました。彼らの仕事は、ナショナルジオグラフィック協会の『ナショナル・ジオグラフィック』誌のビデオに多くの火山の映像と写真が収められている形で見ることができます。彼らはまた、NHKの番組で溶岩流をボートで渡ることを望んでいました。

クラフト夫妻の功績は、彼らのインタビューとともに紹介されており、彼らが撮影した火山の映像や写真が含まれています。2011年6月3日に雲仙・普賢岳での惨事から20年を迎えたことを契機に、フランスの火山学者夫妻の物語を描いたドキュメンタリードラマ「カティアとモーリス?雲仙・普賢岳に挑んだ夫婦?」が制作され、NHKとフランス2の共同制作で長崎県島原市で撮影が行われました。また、長崎県島原市にある雲仙岳災害記念館では、クラフト夫妻が撮影した火山の記録映像などを実際に観ることができます。

タイトルとURLをコピーしました