モナリザ盗難(1911)とは?犯人の動機は?ビンセンツォ・ペルージャ

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『モナリザ』は木の板に油絵で描かれたレオナルドダヴィンチによる名画。

『モナリザ』の絵の保存には湿度調整に非常に気を使う必要があるため、ルーブル美術から滅多に持ち出されることはなく、【公式記録】で海外に出たのはわずか2回。

1回が1963年アメリカ、もう1回が1974年4月20日日本の東京国立博物館です。

しかし1911年には、このモナ・リザが盗まれるという20世紀最大の美術品窃盗と称される事件が起きていました。

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モナリザ盗難(1911)とは?犯人の動機は?ビンセンツォ・ペルージャ

イタリアの芸術家レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた国際的に最も有名な絵画の一つ『モナリザ』のモデルに関しては、定説がありません。

フィレンツェの有力者フランチェスコ・デル・ジョコンドの妻エリザベッタという説、ナポリのイサベラ・グアランダという説、などなど多くの説があります。

中にはこれは女装したダビンチ自身ではないか、などという説まであります。

そんな『モナリザ』ですが1911年8月22日に盗難され、世界中で大きな騒動となりました。

窃盗犯はイタリアのドゥメンツァ出身のビンセンツォ・ペルージャ(ヴィンチェンツォ・ペルッジャ、1881年10月8日~1925年10月8日)

ペルージャはルーヴル美術館で絵画の額縁を修復する仕事を利用して、モナリザを盗んだのである。

ちなみに、当時のルーヴル美術館では、盗難よりも破壊行為の方が問題視されていました。

熱狂的なファンが剃刀や酸で有名な作品を削り取る行為が横行していたため、モナリザをはじめとする美術館の著名な絵画のいくつかが選ばれ、ガラスで覆われた特別な鑑賞箱が作られました。(実際、モナリザ用の箱を作ったのはペルージャで、彼の左手の親指の指紋が付いたまま階段の吹き抜けに捨てられていた箱と同じものだった)。

その経緯としては、ペルージャは以前から絵を盗もうと考えており、思い立ったら絵を隠すためにコートを着たという。

出勤するために家を出て、従業員が帰る時間の前に、遠い隅っこで通行人を見て、まだ誰もいないことを確認した。

そして、美術館が完全に避難したのを確認すると、絵を盗んでコートの下に隠し、そのまま出口のゲートをくぐったのです。

もちろん、ペルージャは美術館の従業員の一人だったので、誰も疑ってはいなかった。

ペルージャは、家に向かう途中、「モナリザを売ったらいくらになるだろう」と一攫千金を夢見て、家に入ってからも絵のことを考えていた。

しかし、予想に反して「モナリザ」はなかなか買い手がつかず、その絵を2年間、家に置いていたという。

業を煮やして絵を売ろうと思ったときに、イタリア人画家のアルフレド・ゲリに、盗んだ絵を買い取ってほしいと申し出たことで、事件が明るみになっていきます。

アルフレド・ゲリは、絵を買いたいというふりをしてペルージャを欺き、絵が本物かどうか確かめるために少し時間をくれと依頼します。

ゲリは絵が本物の「モナリザ」であることを確認した後、イタリア当局に連絡してペルージャによる強盗事件を密告しました。

イタリア警察はペルージャを逮捕し、絵画をブービエ・ギャラリーに展示して、このことは大いにイタリア人を喜ばせることになりました。

しかし、ペルージャ逮捕の知らせを受けたフランスでは、イタリアとの間で外交交渉が行われ、外交関係が一時、危うくなってしまいます。

フランスは、イタリアに対してモナリザの絵画と犯人のペルージャを引き渡すことを要求。

イタリアは絵をフランスに引き渡し、ペルージャには1年の懲役が科し、事件は決着を迎えています。

モナリザ盗難(1911)の背景

窃盗事件の捜査では、それまでの複雑な説とは対照的に、ペルージャが自称した動機は極めてシンプルなものだった。

作家のシーモア・ライトによるとイタリアの労働者で大工だったペルージャは貧乏暮らしだった。フランスを憎んでいた。イタリアを恋しがっていた。彼はモナリザの絵画をこよなく愛していたそうです。

ルーブル美術館にあるイタリアの名画は、すべてナポレオンが盗んでフランスに持ち込んだものだという考えの持ち主だったと。

フランス皇帝・ナポレオンはイタリア占領中に多くの国宝を略奪した経緯がありますが、ただ『ラ・ジョコンド』はフランソワ1世がレオナルド本人から譲り受けて以来、「モナリザ」はフランスのものとなっていました。

ペルージャは裁判で、絵の返還のためにゲリに50万リラという法外な報酬を要求したにもかかわらず、絵画の美しさに魅せられ、フランスからイタリアに持ち帰ることだけを考えていたと主張。

ただペルージャの証言は裁判中に二転三転し矛盾した主張を繰り返しています。

一人でやったと言っていたのに、後になって二人のイタリア人の友人を窃盗犯に仕立て上げたりしますが、主張を裏付ける決定的な証拠は見つかっていません。

皮肉なことに、ペルージャは祖国イタリアでは愛国心にあふれた英雄とみなされるようになります。

刑務所に収監された後も、ペルージャのもとにはワインのボトルが送られたり、女性は彼のためにケーキを焼いたり、時にはラブレターが届けられることもあったそうです。

結局、弁護側は精神科医を呼んで、ペルージャには「知的欠陥がある」と証言させ、同情的なイタリア法廷は彼に7カ月の減刑判決を下します。

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