野村長平(無人島長平)wiki|鳥島漂流12年から生還

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野村長平とは、江戸時代にアホウドリの繁殖する鳥島に漂流し12年も生き延びて生還を果たした人物。

「無人島長平」とも呼ばれる野村長平について。

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野村長平(無人島長平)wiki|鳥島漂流の経緯

野村 長平(宝暦12年(1762年、1761年とも) – 文政4年(1821年))は、江戸時代の土佐国岸本浦(現在の高知県香南市香我美町岸本)の船乗り(水主)。

船の難破による鳥島での無人島生活を経て、故郷に帰還した

野村長平が鳥島に漂流したのは天明5(1785)年正月29日(現在の暦で3月9日)のこと。

天明の大飢饉による難民救済のため赤岡浦から土佐藩の蔵米250俵を運ぶため東の田野・奈半利浦(なほりうら)に向け出帆した帰りに「シラ(冬の大西風)」に遭い、舵・帆柱を失って遭難漂流しました。

江戸時代といえば日本は厳しい鎖国体制にあり日本人が海外に渡航するのは重罪とされていた時代。

丈夫な船を造るのは幕府から禁止されていて、丈夫でない船に乗った船乗りが行方不明になることは少なくなかったそうです。

野村長平を乗せた漂船は室戸岬を越えて黒潮に乗ったと推定され、12日後に当時無人島であった伊豆諸島の鳥島に漂着した

鳥島は日本本土からは800kmも離れていました。

漂着時には長平以外に3名の乗組員がいたが、漂着後2年以内に相次いで死亡。

以後、野村長平は仲間の死後、火もなく全くの自給自足で無人島での完全孤独生活を強いられることになります。

野村長平(無人島長平)wiki|鳥島漂流中

鳥島での主な食物はアホウドリの肉と卵、それに少量の海産物であり、後述する大阪船の漂流者と合流する以前は火打石を持たなかったため、それらを生で食した。

またアホウドリの肉を乾燥して保存し、これをアホウドリの不在期間(春の巣立ちから秋の営巣まで)の主な栄養源とした。

水は雨水を水源とし、これを多数のアホウドリの卵殻などに蓄えた。

長平は一日に飲む水の量をアホウドリの卵殻で作った容器1個分と決めていたという。

アホウドリの羽を縫い合わせて敷物や衣服を作り、脂肪を灯油に用いた。月を観察して三日月を見た回数から年月を把握した。

漂流から3年後、大阪の船乗り(大坂北堀江の備前屋亀次郎船)が11人、さらに2年後には薩摩潘の船乗り(日向国志布志の中山屋三右衛門船)が6人漂着し、野村長平を含めた18人の仲間が共同生活をするようになりました。

この島には木材となる木がなかったものの、鍋釜・大工道具も揃った食料確保の他、住居や道の整備、ため池の工事などを組織的に行いさらに船を作って鳥島を出ることを1792年頃に決意

既に18名のうち、1789年から1793年の間に4名が死亡していました。

野村長平(無人島長平)wiki|鳥島漂流12年から生還

鍛冶や船大工の経験者がおり、志布志船から回収した工具やかつての漂流者が残した船釘、自作のふいごで古い船釘や錨を溶かして製造した大工道具を造船に用いた。

船の素材には流木を、帆にはアホウドリの羽毛から作った衣類を用いた。他にも、流木についている釘やイカリを溶かして作った新たな釘や大工道具を造船に用います。

造船中の船が波にさらわれることを防ぐために小高い丘の上で作業を行っていたため、そこから海岸までの経路の障害物となっていた複数の岩をノミなどで削って幅5メートル弱の道を造り、島の北東部の海岸から長さ約9メートルの船を海に降ろした。この時点で、造船を決意してから5年を経過していた。

長平らは、のちの漂着者の便宜を図って、自らの遭難の経緯と造船について記した木碑、生活道具、ふいご、火打石、船の模型などを洞穴の中に納めて標識を立てた

1797年、彼らは苦労の末、長さ約9mの船を完成させると、6月8日、14人全員が船乗り込み、鳥島を出港しました。

数日の航海で青ヶ島を経て、島で亡くなった者の遺骨とともに無事八丈島に辿り着いた。

長平にとっては、12年4ヶ月ぶりの社会復帰となりました。

一行はこの地で伊豆の国代官所(幕府直轄)の調べを受けた後、幕府の御用船で江戸に送られた。江戸での本格的な調べ(勘定奉行所および土佐藩邸)が済むと一行は解散し、それぞれ帰路に散った。これらの調べの記録は後世に残った。

その後長平は、寛政10(1798)年正月29日に、やっと故郷岸本の家に着いたことになっています。

長平は「無人島長平」というあだ名を付けられ、60年の人生を全うしました。

「無人島長平」というあだ名は、墓にも刻まれています。

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