渋沢栄一は勘定組頭で木綿の専売制度!#青天を衝け

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渋沢栄一は一橋家に仕えていたころ、木綿の専売制度を手掛けた手腕を高く評価されると勘定組頭という藩の財政を担う要職を任されることになります。

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渋沢栄一が木綿の専売制度で一橋家の財政立て直し

渋沢栄一は農家の生まれではあったものの、小作人を抱える豪農で、貸金業も行っていました。

少年時代から経済知識を実地で学んできたため一橋家で重宝され、一橋家の勘定組頭に出世します。

昇進の決め手となったのは、米や木綿の専売制度を始めたこと。

渋沢栄一は農兵募集の任で現在の高砂市など播磨地域に点在していた領地に赴くと播磨の特産品である木綿や菜種油に注目。

播磨は全国有数の綿作地帯で、隣の姫路藩では、木綿反物を専売制として藩が買い取り大阪や江戸に向けて大口取引を行っていた子から高値で安定していました。

姫路藩領の特産品「白木綿」を藩法によって姫路に集めると、晒(さらし)にして加工することで付加価値を付ける仕組になっていたことから大坂と江戸で高値で取引されていたそうです。

ところが一橋領の播磨2万石では領内の村人が商売の知識もないまま個別に大阪で売っていたため、安く買いたたかれることも多く、大した金にならないことから生産量も少なかったそうです。

渋沢栄一は領内の今市村に「物産会所」を開設して領内に産した木綿をここへ集めて買い上げます。

大坂にひらいた問屋へ送ると売り値を姫路藩など他藩より安くしたことで飛ぶように売れたようです。

「道徳経済合一」の理念を持つ渋沢栄一から、領民からは木綿を安く買いたたくような真似をせず、できる限り高く買い上げたのは言うまでもありません。

領民も木綿が金になるということがわかると、益々盛んに木綿を生産するようになるという相乗効果も生まれています。

ただ木綿の栽培や機織りといった仕事を拡大したくても、まずは元手が必要です。

そこで渋沢栄一は藩札を流通させることを計画します。

一橋徳川家で順調に出世していた渋沢栄一はこのころ「勘定組頭」の座に就きます。

一橋徳川家の藩札であれば、流通させることができれば立派に通用するはずだと、世の中に流通させることを考え、現在の日本において、

造幣局
日本銀行
民間金融機関

が行なっているような、通貨発行の仕組みを実践。

売り上げ代金はやはり大坂に開設した会所へ納めさせる、という流通ルートを構築した上で、決算は一橋家の発行する「藩札(はんさつ)」でおこなうことにしました。

財政改革構想は画期的な政策で、徳川慶喜は、こういった渋沢栄一の類まれな能力に目を付け、2人は直に話をし合う懇意な間柄になります。

渋沢栄一は勘定組頭という現在の財務省における事務方のトップに相当する役職に就くと、藩のレベルではありましたが、言わば経済システムの取り扱い責任者のような役割を担うのでした。

渋沢栄一の勘定組頭とは?

勘定組頭の「勘定」とは、江戸幕府における職名の1つ。

役職の序列は、

勘定奉行
勘定組頭
支配勘定

となっていて、執務は主に勘定所で行なっていました。

勘定組頭(かんじょうくみがしら)とは、江戸幕府の役職の1つ。勘定所に属して勘定奉行の支配を受けて勘定所所属の諸役人を指揮・監督を行い、幕府財政及び農政を担当する役職で、その歴史は寛永年間(15世紀初頭)にまで遡ることができます。

寛文12年(1672年)の職制によれば定員12名・役料は100俵であり、御殿(江戸城)担当が2名が設置され、残りは上方担当と関東担当に振り分けられていた(最低4名)。天和2年(1682年)に一旦役料が廃止されたが、享保7年(1722年)に改めて役高350俵が与えられ、翌8年(1723年)の制度改革によって地域別振り分けを廃して、代わりに御殿詰・勝手方・取箇改・伺方・諸向勘定帳改の部門別振り分けが導入された。以後定員は10-13名で推移しながら幕末にまで至った。

武士の家計簿も勘定組頭?

「武士の家計簿」では加賀藩の下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山(いのやま)家に残された、約37年間の入払帳や書簡をもとに猪山直之(なおゆき、加賀藩御算用者として活躍し、家禄を100石から180石に増やす出世を遂げる)、成之(なりゆき、加賀藩御算用者から、明治維新後は海軍主計官となる)父子の家庭の日常生活や武士階層の風習を分析している。

1842年(天保13年)、借財が大きくなった猪山家(当主・直之、父・信之(のぶゆき))が借金整理を決意し、家財を売り払い収入、支払いを記載する入払帳がつけられることとなった。仔細に書き残された収入、支出の項目から武士の暮らし、習俗、とくに武士身分であることによって生じる祝儀交際費などの「身分費用」に関する項目や、江戸末期の藩の統治システムが実証的、具体的に描かれている。

勘定組頭となった渋沢栄一のその後

渋沢栄一は、一橋慶喜が徳川宗家になったことで、勘定組頭から御用人手附(ごようにんてつき)という職に就きます。

1866年、攘夷派の長州を討とうと戦いを進める中、長州征伐軍の本営勤務、つまり従軍するということです。現代で言えば、事務方の仕事をしていたところ、急に営業部に異動となると、栄一は第一線に立つことを志願します。

しかしその最中で将軍徳川家茂が大阪城で亡くなると、慶喜に将軍の座が回って来ることになり、渋沢栄一は自動的に幕臣となります。

豪農とは言え、農民の子が幕臣にまで一気に出世することは通常は考えられないような出世。

幕臣となった渋沢栄一は奉行支配調役に就任すると、今までの一橋家での仕事を後任に引き継いで、京にある幕府の詰め所で働くことになります。

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