武田信玄と明智光秀の関係は密約?本能寺の変の陰謀論?

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明智光秀は武田信玄はどんな関係だったんでしょうか?お互いにどう思っていた?

明智光秀は武田との内通がバレそうになったので信長を殺したという本能寺の変の陰謀論は?

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武田信玄と明智光秀の関係は密約?本能寺の変の陰謀論?

テレビ番組「謎解き伝説のミステリー」で織田信長が明智光秀に本能寺の変で殺られた理由は、明智光秀と武田信玄が裏で繋がっていたという説がでてきました。

明智光秀はいつか信長を討つ計画をしていたが、武田信玄が死んで、武田家は滅亡。

更に武田信玄の家臣の穴山梅雪が信長に内通し、武田との内通がバレそうになったので信長を殺したというもの。

明智光秀が武田信玄と内通していたと書かれている史料は、細川幽斎(藤孝)を祖とする旧熊本藩主細川家に伝わる『細川家記(綿考輯録)』です。

磯田道史氏は一次史料ではないが、評価すべき史料だと語られましたが、それではこの記述が歴史学者や歴史研究家の間でどれだけ評価されているのかが問題になります。

2020年1月1日、NHKのBS放送で「本能寺の変サミット2020」が放送されました。

メイン司会者は、爆笑問題の「田中裕二」氏と「太田光」氏で、それに東京大学史料編纂所教授の「本郷和人」氏が解説者ということで付かれました。

他の参加者は、三重大学教育学部教授の「藤田達生」氏、熊本大学永青文庫研究センター長の「稲葉継陽」氏、大山崎町歴史資料館館長の「福島克彦」氏、安土城考古博物館学芸員の「髙木叙子」氏、天理大学文学部准教授の「天野忠幸」氏、東洋大学文学部非常勤講師の「芝裕之」氏、一乗谷朝倉氏遺跡資料館学芸員の「石川美咲」氏となります。

蛇足ながら、肩書は放送当時のもので、今回のTV番組に出られた「稲葉継陽」氏がおられるのと、「磯田道史」氏がおられないことに注目して下さい。

そして、2時間番組だったのですが、『細川家記(綿考輯録)』のあの記載については一度も出てきませんでした。

まともな学者や研究家は取り合わないということです。

ちなみに、光秀・信玄内通説の信憑性の有無は置いといて、光秀・信玄間のやり取りは現在確認されていないので憶測になりますが、

・斎藤家家臣時代に隣国武田と外交を行う際に知遇を得た
・放浪時代に武田に赴き知遇を得た
・信長包囲網期に足利義昭を通じて知遇を得た

あたりが考えられるかと思われます。

まとめ:武田信玄と明智光秀の関係は密約?本能寺の変の陰謀論?

明智光秀が、武田信玄のことをどの様に思っていたのかを示す信憑性の高い史料はありません。

信玄は、元亀三(1572)年十月三日、甲府を出陣し、翌四(1573)年四月十二日に死没したとされています。

そして、光秀は元亀二(1571)年十二月頃に、どの様な理由があったかは分かりませんが、足利義昭に「暇乞い」をしており、徐々に義昭から離れて織田信長に付く動きを見せています。

ただ、翌三(1572)年五月十九日には、室町幕府の直属上司である曾我助乗に参陣した戦いの状況を報告しています。

どうも、この頃が、光秀が義昭から離れて信長に付く境のようで、光秀も細川藤孝も信長勢との動きが多くなります。

浅井氏を討つために、琵琶湖で「囲い船」と記録されている船を使って戦っています。

光秀自身にとっては、信玄のことよりも、明智家の為に、自分の去就を明らかにするということしか考えることが出来なかったのではないでしょうか?

『甲陽軍鑑』『織田軍記』などによると、永禄十(1567)年末、織田信忠は武田信玄の娘:松姫と婚約したとなります。

そして、これが史実だったという一次史料があり、そこに光秀の名前が登場します。

宮内庁書陵部所蔵の陰陽道:土御門家の史料『土御門文書』中の『日時勘文留』の紙背文書に、「信長御若子(信忠?)」と「信玄御息女(松姫?)」の「御祝言の儀」と書かれていて、その祝言の担当者は「明十兵」とあります。

この「明十兵」が「明智十兵衛尉光秀」で、光秀は坂本城の普請に忙しいと書かれています。

なお、これは元亀三(1572)年閏正月十二日の事だとされています。

信忠と松姫の婚約は史実で、信玄が十月に西上作戦を開始したことにより、二人の縁組みは破談になったと考えられています。

なお、細川忠興に嫁いだ明智光秀の娘は「玉」という名で、本当にもし光秀とポルトガル系のイエズス会やスペイン系のフランシスコ会と繋がりがあるのならば、それを南蛮寺(教会)に報せれば済むことで天正十五(1587)年になって忠興が九州に出陣した留守に侍女と共に、大坂の屋敷近くの南蛮寺(教会)に向かいました。

その後、洗礼を受けて「Gratia」という洗礼名を与えられました。

これは、ラテン語で意味は「恩恵」で、ガラシャと呼ばれるようになりました。

二条新御所で捕まった「弥助」については、光秀は「黒奴は動物でなにも知らず、また日本人でない故これを殺さず、インドのパードレの聖堂におけ」と命じたとルイス・フロイス『日本史』には書かれています。

さらに、本能寺の変時に安土に居たオルガンティーノは、助けられて坂本城で光秀は摂津の高山右近を味方に付けるように要請しましたが、オルガンティーノは日本語では「光秀に味方するように」と書き、ポルトガル語では「たとえ我らが皆十字架に懸けられるるとも、この暴君の味方にならざるよう、そうすることが主の御ためである」と書いたとも書かれています。

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