玉勝間の現代語訳は?二品,すべて,めづらしき,ものまなび,人のただ

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「玉勝間」は国学者の本居宣長による随筆。

寛政6年から文化9年にかけて15巻が刊行されていますが古文・古典で出題されやすい章段を抜粋して現代語訳しています。

『玉勝間』抄
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玉勝間の現代語訳 二品

『玉勝間』巻一(頼朝卿 静を召して舞はせられし事)

二品ならびに御台所、鶴岡の宮に参り給ふついでに、静女を廻廊にめし出でて、舞曲を施さしめ給ふ。
去ぬるころより度々仰ほせらるといへども、かたくいなみ申せり。
今日座に臨みても、なほいなみ申しけるを、貴命再三にに及びければ、仰せにしたがひて、舞曲せり。左衛門の尉裕経つづみを打ち、畠山次郎重忠銅拍子たり。静まづ歌を吟じていはく、

吉野山峰の白雪ふみ分けて入りにし人の跡ぞ恋しき

次に別物の曲をうたひて後、また和歌を吟じていはく、

しづやしづしづのをだまきくりかえし昔を今になすよしもがな

二品仰せにいはく、「もつとも関東の萬歳を祝すべきところに、聞こしとめすところを憚らず、反逆の義経をしたひ、別れの曲をうたふ事奇怪なり。」とて、御けしきあしかりしに、御台所は、貞烈の心ばせを感じ給ふによりて、二品も御けしきに直りにけり。
しばしありて、簾中より卯花重ねの御衣をおし出だして、纏頭せられけり。


(頼朝が義経を反逆者としたので、義経は奥州に逃亡した。
頼朝は、義経の愛人の、もと白拍子で舞の名手である静御前を捕らえた。)

二品(源頼朝)と御台所(妻の北条政子)が、鶴岡八幡宮にお参りされた時、
静を廻廊に召し出して、舞をお舞わせになった。
前々からたびたび(舞を舞えと)命じておられたが、(静は)かたくお断り申しあげていた。

今日の宴席に臨んでも、なお(静は舞うことを)お断り申しあげていたが、
頼朝が再三お命じになったので、仰せにしたがって、舞を舞った。
左衛門の尉裕経が鼓を打ち、畠山次郎重忠が銅拍子を打った。
静はまず歌を吟じてこう言った、

吉野山の峰の白雪を踏み分けて入って行った人(義経)の跡が恋しいことです

次に別の曲を歌った後、また和歌を吟じてこう言った、

しづやしづしづのをだまき(おだまきは麻糸を巻いたもの、以上は「繰り」につく序詞)のように繰りかえし昔を今にするすべがあればいいのに

二品(頼朝)がおっしゃるには、
「何よりまず関東(鎌倉幕府)の萬歳(繁栄)を祝うべきであるのに、
(私が)聞いているのにはばからず、反逆者の義経を慕って、
別れの曲を歌うとはけしからんことだ。」と言って、不機嫌なご様子だったが、
御台所(政子)は、(静の義経への)強い貞節の心に感動なさったので、
二品(頼朝)もご機嫌がなおったのであった。

しばらくして、簾の中から卯花重ね(表は白で裏は青)
の御衣を押し出して、静への褒美として与えられた。

玉勝間の現代語訳 近き世

近き世、学問の道ひらけて、おほかた万のとりまかなひ、さとくかしこくなりぬるから、
とりどりに新たなる説を出だす人多く、その説よろしければ、世にもてはやさるるによりて、なべての学者、いまだよくもととのはぬほどより、我劣らじと、よにことなるめづらしき説を出だして、人の耳をおどろかすこと、今の世のならひなり。その中には、ずいぶんによろしきことも、まれには出で来めれど、おほかたいまだしき学者の、心はやりて言ひ出づることは、ただ人にまさらむ勝たむの心にて、かろがろしく、まへしりへをもよくも考へ合はさず、思ひ寄れるままにうち出づる故に、多くはなかなかなるいみじきひがごとのみなり。すべて新たなる説を出だすは、いと大事なり。いくたびもかへさひ思ひて、よく確かなるよりどころをとらへ、いづくまでも行き通りて、たがふところなく、動くまじきにあらずは、たやすくは出だすまじきわざなり。その時には、うけばりてよしと思ふも、ほど経て後に、いま一たびよく思へば、なほわろかりけりと、我ながらだに思ひならるることの多きぞかし。


近頃になって、学問の方法が進歩して、
一般にすべての(学問の)取り扱い方が、
手際よく上手になったために、
それぞれに新しい学説を発表する人が多くなり、
その説がちょっといいというと、背間から称賛されるものだから、
たいていの学者が、
まだ十分に(その研究が)完成されないうちから、
他人には負けまいと、
世間で普通となっている説とは違った珍しい学説を発表して、
聞く人々を驚かすことが現代における一般の風習である。

それらの新しい学説の中には、
それ相応によい学説もたまにはでてくるようであるが、
たいていの場合、未熟な学者が、
気がはやってあせって唱え出すことであって、
それは、ただもう他人より抜きん出よう
、他人に勝とうという心で、
軽はずみに、
前後をよくも考え合わさず
思いついたままに唱えだすものであるから、
それらの多く(の説)は、
なまじっか発表しない方がましなくらいの
ひどい間違いごとばかりである。

総じて、新しい学説を発表するということは、
たいへん重大なことである。
(だから)何度も繰り返し繰り返しよく考えて、
十分に、しっかりした根拠をとらえ、
どこまでも筋が通っていて、前後矛盾しているところがなく、
しっかりしていて決してうごくことのない学説でなければ、
軽々しく発表してはならないものなのである。

その(発表した)当時においては、得意気になって、
これでいい、間違いなしだと思うことでも、
しばらく時がたって後に、もう一度よく考えてみると、
やはりまだよくなかったなあと、
自分自身でさえ自然に(そう)思われてくることが、
まったく多いものであるよ。

玉勝間の現代語訳 めづらしき

めづらしき書をえたらむには、したしきもうときも、同じこゝろざしならむ人には、かたみにやすく借して、見せもし寫させもして、世にひろくせまほしきわざなるを、
人には見せず、おのれひとり見て、ほこらむとするは、いといと心ぎたなく、
物まなぶ人のあるまじきこと也、たゞしえがたきふみを、遠くたよりあしき國などへかしやりたるに、
あるは道のほどにてはふれうせ、あるは其人にはかになくなりなどもして、つひにその書かへらずなる事あるは、
いと心うきわざ也、さればとほきさかひよりかりたらむふみは、道のほどのことをもよくしたゝめ、又人の命は、
ひなかなることもはかりがたき物にしあれば、なからむ後にも、はふらさず、たしかにかへすべく、
おきておくべきわざ也、すべて人の書をかりたらむには、すみやかに見て、かへすべきわざなるを、
久しくどゞめおくは、心なし、さるは書のみにもあらず、人にかりたる物は、
何も何も同じことなるうちに、いかなればにか、書はことに、用なくなりてのちも、
なほざりにうちすておきて、久しくかへさぬ 人の、よに多き物ぞかし、


珍しい書物を持っているとしたら、親しい人にも疎遠な人にも、同じ学問を志している人には、お互いに気軽に借して、見せもし写させもさせて、世の中に広めたい事なのを、人には見せないで、自分一人見て、誇ろうとするのは、大変心汚く、ものを学ぶ人にあってはならない事である。

ただし、手に入れるのが難しい書物を、遠く交通の不便な国などへ貸してやったのに、あるいは道の途中でどっかに行ってしまい紛失し、あるいはその人が突然亡くなったりなどもして、ついにその書物が返らない事があるは、大変辛い事である。

そういう事なので、遠い場所より書物を貸して欲しいという返事の手紙には、道の樣子の事をもよく書きしるし、又人の寿命は、どのくらい有るのか計りがたいものであるので、もし亡くなった場合にも、放置させないで、確かに返す樣に、書いておくべき事である。

すべて人の書物を借りたとしたら、速やかに見て、返すべき事なのに、久しく留め置くのは、思慮分別が無い。そういう事は書物のみだけでなく、人に借りた物は、何もかにも同じ事なのに、どうしてだろうか、書物は特に、用が無くなった後にも、心にも掛けないうちに放置して、久しく返さない人の世の中に多いことだね。

玉勝間の現代語訳 すべて

すべてものを書くは、事の心を示さむとてなれば、
おふなおふな文字さだかにこそ、書かまほしけれ。
さるを、ひたすら筆の勢ひを見せむとのみしたるは、
いかなる事とも読み解きがたきが、世に多かる、あぢきなきわざなり。

よろづよりも、手はよく書かまほしきわざなり。
歌詠み、学問などする人は、ことに手あしくては、
心劣りのせらるるを、それ何かは苦しからむと言ふも、
一わたりことわりはさることながら、なほ飽かず、
うちあはぬ心地ぞするや。
宣長いとつたなくて、常に筆とる度に、
いと口惜しう、言ふかひなく覚ゆるを、
人の請ふままに、面なく短冊一ひらなど、書き出でて見るにも、
我ながらだに、いと見苦しうかたくななるを、人いかにみるらむと、
恥づかしく胸痛くて、若かりし程に、
などて手習ひはせざりけむと、いみじうくやしくなむ。


すべてものを書くは、事の心を示さむとてなれば、
おふなおふな文字さだかにこそ、書かまほしけれ。
さるを、ひたすら筆の勢ひを見せむとのみしたるは、
いかなる事とも読み解きがたきが、世に多かる、あぢきなきわざなり。

すべて何か物を書くということは、その事柄の本質を示そうとするものだから、
真剣になって文字の定義を明確にして、書きたいものである。
それなのに、ひたすら主張や論理の強さを見せようとばかりするのは、
どういうことか理解しがたいのであるが、世には多く見られる、正しくない姿である。

よろづよりも、手はよく書かまほしきわざなり。
歌詠み、学問などする人は、ことに手あしくては、
心劣りのせらるるを、それ何かは苦しからむと言ふも、
一わたりことわりはさることながら、なほ飽かず、
うちあはぬ心地ぞするや。

すべての技能に優って、字を書くことは上手でありたいものだ。
歌を詠んだり、学問などする人は、ことさら字が下手だと、
心に負い目が持つものだが、それは何も苦しいことではないと言いつつも
一応は道理の上ではそうなるわけだけれども、それでも満足できず、
どうもうまくいかない心地がするものだ。

宣長いとつたなくて、常に筆とる度に、
いと口惜しう、言ふかひなく覚ゆるを、
人の請ふままに、面なく短冊一ひらなど、書き出でて見るにも、
我ながらだに、いと見苦しうかたくななるを、人いかにみるらむと、
恥づかしく胸痛くて、若かりし程に、
などて手習ひはせざりけむと、いみじうくやしくなむ。

宣長は非常に字が下手で、常に筆をとるたびに、
たいそう悔しくて、情けないと思っているので、
人に頼まれるままに、面目なく短冊の一片などを書き出して見るにも
われながら、非常に見苦しくて粗野であるさまを、人はどんな風に見るだろうかと
恥ずかしさに胸が痛むので、若かった時期に、
どうして字を習っておかなかったのかと、大変後悔している

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