山崎育三郎は介護でヤングケアラー!高校の留学も壮絶だった!

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山崎育三郎さんは 幅広い世代から愛され「ミュージカル界のプリンス」と称されるミュージカル俳優。

『エリザベート』でルキーニ役を2015年から務めるなど日本を代表するアーティストとなった山崎育三郎さんですが、高校時代にはヤングケアラーとして過酷な祖父母の介護を経験しています。

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山崎育三郎は介護でヤングケアラー!

山崎育三郎さんは東邦音楽大学附属東邦高校在学中に休学し、アメリカに留学をしています。

2年間ほどを過ごしている最中、転勤で単身赴任していた父親と母親が離婚

4人兄弟のうち2人の兄は海外留学中で、同じく高校生の弟は寮に入って野球に熱心に取り組んでいたことから、留学から戻ってすぐに祖父母の介護を一手に引き受けるようになります。

もともと父親が仕事で転勤が多かったことから、母が十数年間、ほぼ1人で父の両親である祖父母の介護をしながら働き、子育てもしていました。

祖父母は僕が山崎育三郎さんがまだ小学生だったときに脳梗塞(こうそく)を患ったことがきっかけで介護が必要になると、祖父は認知症とも診断され意思疎通が難しくなっていました。

祖母は右半身不随で車椅子生活をするといった生活で、母親がまだ一人で介護をしていた時には祖父は時に「キングコングのように」暴れることもあったと話しています。

山崎育三郎さんは留学中に母親から電話で「私、だめかもしれない」と介護で疲れ果てている様子を訴えていました。

高校生の山崎育三郎さんがただ一人で「朝食を作って一緒に食べて、ホームヘルパーさんが来たら学校に行く。帰ったら、そのヘルパーの方が作ってくれた夕食を食べさせて、お風呂に入れる」といった介護生活を過ごしています。

認知症で家のものを壊したりする祖父の面倒をみたり、食事をとろうとしないお祖母様にごはんを食べさせてお風呂に入れたり。

母親は父親と離婚したことから実家のある岡山にすでに帰っていたため、頼れるものもなかったそうです。

そんな生活は、祖父母が介護施設に入るまで3年くらい続き「なんで自分が、と思うこともあった」と当時の心境を正直に告白しています。

ただ、大好きな祖父母のために奮闘し、30年の人生でいちばん苦悩した時期だったそうですが、いつかミュージカルの舞台に立つという夢が大きな心の支えになっていました。

心が折れそうになったときには帝国劇場に行き「あの舞台に立つんだ!」と自らを奮い立たせていたそうですが、苦難を乗り越えで掴んだのが2007年に21歳で出演した名作ミュージカル「レ・ミゼラブル」

マリウス役に抜てきされると2009年の23歳のときには「モーツァルト!」で念願だった帝国劇場初主演も果たしています。

山崎育三郎さんは3年に及ぶヤングケアラー生活を振り返って「大変だったけれど、強くなれた」と介護でも得られるものがあったと話しています。

ちなみに、山崎育三郎さんがヤングケアラーとして介護に携わっていた時の様子は、自叙伝『シラナイヨ』で詳しく紹介されています。

書籍のタイトル『シラナイヨ』とは、小学校からの友達が「イク、いる?」と遊びにくると、祖父が必ず「シラナイヨ!」と答えていたことから。

山崎育三郎は介護をする前、高校の留学も壮絶だった!

山崎育三郎さんは16歳の頃にアメリカのミズーリ州ボン・テア市にあるノース・カウンティ・ハイスクールに語学留学していますが、
街のの人口が2017年時点で約7千人に対して、アジア人はたったの約0.2%。

日本人どころかアジア人自体がほとんどいないという街で、山崎育三郎さんの通う学校ではもちろん唯一のアジア人。

英語はまだ喋れないし、初めての留学で緊張して一人で廊下を歩いていたら、アメリカ映画によく出てくるような体格の大きな男子生徒がいきなり投げ飛ばして、英語で罵倒してきたそうです。

ものすごい理不尽な目に遭い、トイレに逃げ込む生活が3か月ほど続いたそうですが、それが、学校の食堂で行われたサタデーナイトのダンス・パーティで一変します。

パーティでは、500人くらいが輪になって踊っていて、時々真ん中が空いてダンスの上手い子が踊っていたことから、
「ウァーッ!!」って叫びながら勇気を振り絞ってステージに飛び出します。

手足が振り切れるほど必死で踊ると、罵倒されていたとは思えないほど周囲から割れんばかりの賞賛を受けるようになります。

翌日の学校では廊下を歩くと「オー!イク!昨日なんだよあれ!最高だぜ!」と声をかけられ、
「僕とランチしようよ!」とか「今度アフタースクール一緒にごはん行こうよ!」と、周囲と打ち解けられるようになったそうです。

ちなみに、山崎育三郎さんには留学を途中で切り上げて帰国をするという選択肢もありましたが、先に留学をしている兄二人がうまくやっているのに、自分が逃げ帰るわけにはいかないと心に決めていたそうです。

映画のような展開!山崎育三郎の留学エピソードとは?
山崎さんは2017年2月に、同番組の企画で、16歳の頃に語学留学していたアメリカのミズーリ州にあるノース・カウンティ・ハイスクールを訪問。

山崎さんはこの学校に約1年間通っていたそうです。

「当時、ほとんど英語が話せなかった」と振り返る山崎さん。

山崎さんの留学先であるボン・テア市の人口は2017年時点で、人口が約7千人。

その内、アジア人はたったの約0.2%しかおらず、日本人どころかアジア人自体がほとんどいないという街でした。

そのため山崎さんは、留学先の高校でとても珍しがられたといいます。…

みんながジロジロ見るんすよ。

「うわ!留学生だ!」っていう感じで。

アジア人が、2千人の生徒がいる中で僕1人だったんで。

それで、初めの頃は友達もいないし。だいたいトイレに隠れてました。

アナザースカイⅡーより引用

その後、トイレに逃げ込む生活が3か月ほど続いたといいます。

ダンスパーティで大胆な行動に!人生が変わった瞬間とは?
山崎さんが人目を避けながら学校生活を送っていたある日、学校主催のダンスパーティが食堂で行われました。

それを柱の陰から見ていたという山崎さん。

山崎さんは小学生の頃からミュージカルの主演を務めるなど、ダンスや歌には自信がありました。

そこで、みんなが楽しそうに躍る姿を見ながら、ある思いが頭をよぎったといいます。

それ(みんなが躍っている姿を)見ながら、「もし今俺が、あそこの真ん中で1人で踊ったら、明日から何か変わるんじゃないか」と思って。「よし!子役でミュージカルやってた」と。

「ここで行ってやろう!」と思って。

「うわー!」っていいながらみんなをかき分けて、センターにドンッて立ったんです。そしたらみんな、あ然として。…

「あいつ、何やってるんだ?」みたいな。一瞬、間があって。

その瞬間、僕がこうやって踊ったら「うわぁーっ!」って盛り上がったんです!

みんながテンションが上がって!やったこともないブレイクダンスもして、地面でぐるぐるーって回って…。

こっからですね。この次の日から。

学校に来て、廊下歩いてたらみんなが「オー!イク!昨日なんだよあれ!最高だぜ!」みたいな。

「僕とランチしようよ!」とか「今度アフタースクール一緒にごはん行こうよ!」とか、みんなに声かけてもらって。

https://woman.excite.co.jp/article/lifestyle/rid_Grape_884880/pid_3.html
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