羅生門の読書感想文400字程度・800字程度の書き方と例文

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芥川龍之介の短編小説『羅生門』について学校の授業では読書感想文を書いて提出する宿題が出されることがあります。

言わずと知れた平安時代を舞台に”人間の悪”が描かれた物語ですが羅生門の読書感想文を400字程度・800字程度で書くには?

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羅生門の読書感想文の書き方

■羅生門あらすじ
仕事を首になった男が、羅生門の前で、雨宿りをしている。男は、羅生門の上部へ登る。女の死体から、髪の毛を抜く老婆をみつける。男は怒りが込み上げる。聞けば、老婆は、引き抜いた髪でかつらを作るという。これは、生きるために仕方ないことだと。この女も生前は、蛇の肉を魚の干物だと言って売っていた。それも、仕方ないことだと言う。男に勇気が込み上げる。ならば、俺がお前の服を引きはがすのも、生きるために仕方ないことだ。服を引きはがした男は、去っていく。どこに行ったかは、わからない。

羅生門の読書感想文は、下人の心が羅生門にいるほんの短い時間で変化していくことから、『非常時では、少しのことでどんどん変わっていく人間の心理状態。』に焦点を当てても良いでしょう。

ほかにも、老婆が死体から髪の毛を抜くという行為や、
下人が老婆に太刀を突き付けた行為
下人が老婆を蹴倒した行為など、
着目できる点は多そうですね。

・芥川龍之介は何を描きたくて書いたのか(人間の悪について、など)

・感想(読んでみて面白い、読みやすいと思った→なぜそうだったか書く
難しい、読みにくいと思った→何故そうだったのか考えて正直な気待ちを書く
会話文の多さや使っている言葉の難しさでなぜそう思ったか説明するのもいいと思います。)

・なぜ登場人物で無く第三者の目線で描かれているのか自分の考えを書く

・最後の一文について下人はあの後どうなったのか自分の考えとなぜそう思ったかを書く(作者がこの終わり方にして何を伝えたかったかなど)

あくまでテーマの例えとしてですが参考に挙げておきます。

羅生門の読書感想文400字程度の例文

「羅生門」では、「人間の悪や良心」や「この世の悪や善」ということを問題に考えねばなりません。「生きて行くため」には、悪しきことをなさねばならい「現実」というもののどうしようもなさ、をどう考えるかです。また生きることの猥雑さや、力強さが問題ともなっています。作者は、自分が描いた登場人物のような「生きることのたくましさ」がなかったとも言えるのです。

「老婆」と「下人」の会話をよく考えられることです。老婆はどういう風に自己を正当化しようとしていたか、また、下人が自分を理解してくれるだろうと、まだ期待していたことに着目すべきでしょう。そして、老婆の話を聞いた後の下人のくだした判断。下人自身の生き方の選択というものは何であったのか、考えられることです。

老婆の話を聞いた後の下人が、どういう心境になり、何を考えたのか、どういう結論を出したのか、ここが重要なポイントだとも言えます。下人は老婆に何をしたのか、そしてどうなったのかです。

「羅生門」という同じ名の黒沢監督の映画がありますが、これは同じ芥川の「藪の中」が原作ですが、やはり、悲惨な厳しい現実のなかで、しかし、最後は、人間の「良心」や「善性」を信じよう、それによって未来を開こうという或る意味、救いのある結末となっています。同じ悲惨な悪しき世を描いて、こういう差が出てきているのです。
(567文字)

羅生門の読書感想文800字程度の例文

 「羅生門」は境界を越えた瞬間の人間のうしろ姿を切り取った物語だと思いました。芥川龍之介が描いたのは、飢え死にするべきか否かとか、なにが善くてなにが悪いのかとか、人間はどうあるべきかなどという理想ではなくて、命の現実だと思いました。

 物語に登場したばかりの下人は途方にくれています。長く主人のもとでカタギに使えていた男のようです。さしあたり明日の暮らしをどうするかを考えます。選択肢は飢え死にするか盗人になるかしかありませんでした。下人は頭では盗人になるほかないことが理解できます。しかし、盗人になると心に決めることができません。荒廃した京都の町と降りしきる雨が下人の感傷を深めます。下人は使用人として暮らしていたカタギの世界の延長線上、いわば「こちら側の世界」の周縁にいるような気がしました。合理的に考えれば「あちら側の世界」に踏み込むしかないとわかります。しかし、境界線を越えることができません。下人は、はしごから櫓のなかを恐る恐るのぞきこみます。そこには「あらち側の世界」が広がっていました。下人は櫓のなかに飛び込みます。「あちら側の世界」の住人に変身して櫓のなかから飛び出してきました。

 「羅生門」には飢え死にをするべきか盗人になるべきかという命題が存在します。しかし、それは、しょせんは「こちら側の世界」に広がっている理想でしかないと思いました。たしかに平安朝には、貴族のたしなみや武家の訓は存在したと思います。「あわれ」とか「ほこり」とかにつながるものだと思います。貴族か武家の世界の一番はじっこで恩恵を受けていたと思われる下人も、物語に登場したばかりのころは、べき論で身の振り方を考えます。しかし、下人が直面したのは、理想ではなくて、命の現実でした。そんな下人が、櫓のなかに広がっていた「あちら側の世界」を垣間見て、自分も「あちら側の世界」の住人になって、櫓のなかから飛び出して夜の闇に消えていくというストーリーが絶妙だと思いました。
(824文字)


私がこの本を読み終えたとき、ある疑問が浮かびました。「悪とは何か」と。
この物語に出てくる下人は老婆の着物を剥ぎとるという悪事を働いた悪人でした。しかし、私はこの下人を「ただの」悪人とは思えません。なぜなら、この下人の中にはたしかに自分なりの正義があったからです。下人が
老婆に出会う前、餓死するか、生きるために盗みも犯すかと迷っていました。これはまだこの世の中の善し悪しがわかっていたからでしょう。ここで迷わず、すぐにでも盗みを犯していたのなら下人は「ただの」悪人であったと思います。
しかし、老婆と出会うことによって、下人になかった勇気を与えることになりました。それも、羅生門の下にいたときには欠けていた勇気とは全く逆のほうに動こうとする勇気です。老婆の「生きるためにしかたのないこと。」という主張は下人の善と悪はひっくり返すこととなり、下人の正義までも変えてしまいました。
その後の下人の豹変ぶりはものすごいものでした。老婆が死人の髪の毛を抜いているのを見たときは全ての悪に対する反感・憎悪に駆られていたというのに、その正義がなかったかのように老婆の着物を剥ぎとり、「己もこうしなければ餓死する体なのだ。」と、老婆と同じようなことを言い、罪を犯してしまいました。
下人は、きっと老婆のこの言葉によって、「盗みを犯してまで、生き延びてはいけない」という足枷が外れてしまったのでしょう。私も、迷っていたときにこのような言葉を聞いたら、一切の迷いが晴れ、悪事を働くことになると思います。なぜなら、下人も私も「生きたい」からです。とても過酷な状況下の中、「生きたい」と望むものにとって、老婆が言った言葉はこの世でいちばん奮い立たせる言葉だと思います。「生きるために仕方のないこと」すわなち、「生きるためには悪事を働いてもかまわない」「手段を選んではならない」と、下人は思ったのでしょう。きっと私も、いえ、私「達」もそう思うでしょう。「生きたい」と思うのは人間の本能だから……私が「ただの」悪人ではないと思うのは、このこともあるからです。下人は「いきたい」という人間の本能に忠実だっただけなのですから。
芥川龍之介が伝えたかったのは「命の現実」だったのだろうと私は思います。私はこの下人のように「命の現実」を突き付けられたことはありませんし、多分これからもないと思います。しかし、この世の中、最初の下人のようにきれいごとを言って生きていけるほど甘くはないでしょう。私はこの先、下人ほどの悪事を働くことはないでしょうが、ときには自分が生きていくために「悪」の選択をし、生きていくと思います。このように考え、何度か羅生門を読み返していった自分が初めて読んだときに浮かんだ疑問を答えるとするならこう答えます。「悪とは生きることかもしれない。」と。
芥川龍之介は自分でこの物語を描いておきながら、自ら命を絶っています。もしかしたら、芥川は怖かったのではないのでしょうか。生きることによって自分が「悪」に染まっていくのが……私も「悪」に染まっていくのは怖いです。それでも、私はそんな恐怖の中、生きていくのでしょう。しかし、そんな中でどれだけ「善」の選択ができるかどうかが問題だと思います。今の私は、「善」より「悪」の選択を多くするでしょう。けれど、その選択は自分の経験によって変わってくると思います。私は多くの経験をし、多くの「善」の選択をし、「完全」な「悪」に染まらないよう努力していきたいです。
(1435文字)


暗かった。時代も暗ければ、舞台も暗い。下人を取り巻くなにもかもが暗く感じた。

下人は雨がやむのを待っていた。でも、主人に暇を出されているから、雨がやんだところですることもない。しかし、下人にとってはこの雨は心の中にも降り続けていたと思う。飢え死にはしたくない。しかし……。そのあとを考えると、もう盗人になるしかないことになる。それじゃあ仕方がないと、潔く盗人になるなり、強盗になるなりするような人間なら、ある意味救われたのかなとも思う。盗人になることを即決できない下人の心のうちは、いつやむともしれない雨が上がるのを待つという動作とリンクしていた。ぐるぐると回る思考。飢え死にしたくはない、かといって盗人になる決心もつかない下人は、柱にとまる蟋蟀と同じくらい小さな存在だった。

羅生門は荒れ放題に荒れていて、門の上には捨てられた死体ばかりが転がっていた。ひとつ間違えば、下人だってそうなる可能性が大きい。きっとその時代には、名もなき死体になることの方が普通だったのだ。

下人には生きることに対する力というか執念というか、そのあたりがほとんど感じられなかった。消去法で生きることと死ぬことすら多分このときの彼にはできなかったのだと思う。このときの、盗人になりたくないという下人の気持ちが善なのか悪なのかと考えると、とたんに私の思考が止まってしまった。今度は私の思考がぐるぐると同じ場所を回っていた。

死体の髪を抜く老婆を見た時、下人に最初に起こった感情は嫌悪なのだと思う。どうしてもそういうものは許容したくないという下人の心が、老婆を問いつめるという行為に出たと思えた。決して悪に対する正義感ゆえに老婆を問いつめたわけではなかろう。

蛇を干したものを、干魚だと偽って売っていたことは、悪いことだけれども、そうしなければ生きていけないのだからしょうがない。自分もこの死んだ罪人の髪を抜いて鬘にしなければ生きていけないのだから、自分のしていることは許容されうるのだという老婆の主張は、まさに我田引水的な正義論であり、そしてとても幼稚な考えだ。悪を裁くのが正義ならばなんとなく話も分かるのだが、老婆の行為は悪の所行の上に悪の所行を重ねていっているだけのことだ。まるで悪の次に来るのは正義に決まっているから、罪人の髪を抜く行為は正義だと言っているかのような老婆に嫌悪感に似た吐き気を覚えた。

しかし……、果たして自分がその場にいたらどうなのか。多分、下人のように逡巡すると思う。罪悪をなしたくないから私は餓死を選ぶ、と声高に宣言する勇気を私は持ち合わせていない。ならば下人は私の化身なのだろうか。下人と私の差異はいったいどこにあるのだろうか。なんども私は考えた。分からないのでそこまでの部分を何度も読み返すことになった。もしかして、行くことも退くこともできないのだろうか、という考えに到ったのは、果たして何度読み返した頃だろうか。

下人は結局追い剥ぎになることを選ぶ。自分もそうしなければ生きられないのだから仕方ないと自分を正当化し、老婆の衣服を奪う。これは老婆がしたのと結局は同じ行為だ。羅生門の作者は一連の出来事になにも判断を下していない。たとえ悪事をなそうとも、それが「生きるため」という大義名分があれば正当化されるのだろうか。

いったい正しいということは何なのだろうと考えているうちに、うっすらと思い浮かんだことがある。それは善と悪が重なっているのかな、という考えだった。

下人がしたことは多分正義的なものではないだろう。しかし、下人に対して、いったい誰が「飢え死にすることを選べ」と命令できるのだろうか。飢え死にすることを選ばずに、追い剥ぎになったお前は悪者だな、と正々堂々と言えるならばまだいい。しかし私はどうしてもそう言い切れないのだ。下人に対して「飢え死にしろ」とはどうしても言えない。偽善的なことを言いたくないからという心情をくみしても、なぜ言えないのか説明がつかない。

下人の行方は、だれも知らない。ただ、そのあとにも下人と関わりを持つ人間が出てくることだろう。それはずっとずっと果てしなく続くに違いない。いつか下人が死んだとしても、やはり下人の死を踏み台にして生きていく人間が出てくるかもしれない。

下人が姿を消した時、そこは闇だった。黒洞々たる夜があるだけだった。そこにあるのは短い白髪を逆さまにして門の下を覗きこむ老婆だけだ。黒と白。それは相容れないものなのだけれど、人間がいつも重ねて持っているものなのではないのだろうか。あるときは黒になり、あるときは白になり、というように。

いや、重ねているのではなくてもしかしたらこれは一体なのかもしれない。それがあるときは黒く映り、あるときは白く映る。あるときは罪悪に映り、あるときは正義に映るというように。

そして、短い白髪だけが残された闇はたんなる夜ではないのではない気がしてきた。この黒洞々たる闇こそがこの世の中なのではないだろうか。黒洞々たる闇こそが人間をとりまく世界であり、人間のなかにうごめいている得体の知れない黒と白の正体なのではなかろうかと思い当たった。
(2101文字)

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