山月記で欠けるところとは?袁參が李徴の詩を評価

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「山月記」は国語の現代文の授業で習うことが多い中島敦の小説。

学校の宿題やテストでは袁參は李徴の作った詩に対する「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」について問題が出題されます。

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山月記で欠けるところとは?

「山月記」で袁さんは李徴の作った詩に対して「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」について

李徴の詩は「格調高雅」「意趣卓逸」とありますので、格調が高く、しかもアイデアも秀逸であったわけで、袁參を感嘆させるのに十分でした。

しかし、袁參は「何かが欠けている」と感じたのです。つまり、感嘆したけれども「感動」はしなかった、ということです。

袁參は李徴のことを

「作者の才の非凡」「作者の素質が第一流」

と言っています。しかし同時に

「第一流の作品となるのには、何処か欠ける」

とも言っています。

つまり、「才能は一流」「作品は二流」

ということですね。詩(文学/芸術)の作品は、才能によってつくられるのですが、才能だけでは一流にはなれない、ということになります。
それはきっと

才能 + ?? = 作品

という公式があり、この??にあたる部分が李徴には足りなかった、というこでしょう。

では??の部分はなにか、それは後半にヒントがあります。
李徴は、若い頃の自分の態度をこのように振り返ります。

「己は詩によって名を成そうと思いながら…師に就いたり…詩友と交って努めたり…しなかった」

つまり、詩人になりたいのに、先生や仲間と勉強するという努力をしなかった、というのですね。
また、

「己の珠に非ざる…をおそれ…刻苦して磨こうともせず」
「己の珠なる…を半ば信ずるが故に…瓦に伍することも出来なかった」

つまり、自分の才能の無さを知ってしまうと怖いので才能を磨かなかったし、その反面、自分にはすごい才能(=珠)があると溺れていたから、かっこ悪くて謙虚に学習する気持ち(=瓦)にはなれなかった」

というのですね。

さらに、自分の妻や子供の世話を頼んだ後で、このようにも言っています。

「本当は…この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。」
「妻子のことよりも、己の…方を気にかけているような男だから、こんな獣に身を堕すのだ。」

とも言っています。

つまり、他人、しかも家族という一番親しい人たちを思いやる人間的な情感より、自分のことを中心に考える奴だ、と言っているのですね。

ということで、
才能 + ?? = 作品
の「??」の部分は簡単に言うと
・努力
・思いやり
だと思います。

後世に残らぬことを悔やんで李徴が旧友に述べた詩は、その友に「どこか(非常に微妙な点において)欠けるところがある」と感じさせた一方で、その直後に自らの現状を嘆いた即席の詩はその場にいる人々のこころを深く動かすものでした。その詩ではかつて郷党の鬼才を自任しながら今は虎に身をやつし、詩人として名を残すことはおろか、もはや人として暮らすことさえ叶わぬ自らの哀れな姿を切々と詠んだものでした。

そのあとのかつての自分を振り返りながら、臆病な自尊心と尊大な羞恥心とが詩作の妨げになっていたことを述べています。李徴は臆病な自尊心ゆえに自らの成功を半ば信じる一方で、尊大な羞恥心ゆえに自らの弱い部分を人に見せることを恐れて自分自身の中心にある”何か”を表に出すことがでず、李徴の作る詩には「どこか欠けているところがあ」ったのでしょう。またそれゆえに人の心の中心に届く詩も人であった時には作れなかったのだと思います。

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