ジョン・ゲイシーとはピエロ「キラー・クラウン」!絵はジョニーデップも

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ジョン・ゲイシー(John Wayne Gacy Jr.、ジョン・ウェイン・ゲイシー)は、アメリカ出身の連続殺人犯(シリアルキラー)。

子供たちを楽しませるため、パーティなどでピエロに扮することが多かったことからキラー・クラウン(殺人ピエロ)の異名を持つ。

1972年から1978年の6年間で計33人もの青年を殺害したものの、表向きには成功した実業家でパーティなどの娯楽の場にボランティアでピエロの格好をして現れ少年たちを楽しませていました。

キラー・クラウンの異名を付けられたケイシーが獄中で書いた絵はマニアには大変な人気があります。

映画「IT(イット)」に登場するペニーワイズのモデルになったとされています。

Sufjan Stevens "John Wayne Gacy Jr" Music Video
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ジョン・ゲイシーとはピエロ「キラー・クラウン」)

John Wayne Gacy: Devil In Disguise | Official Trailer | Peacock Original

ジョン・ゲイシー(John Wayne Gacy Jr.、ジョン・ウェイン・ゲイシー)は有名な大量殺戮(シリアルキラー)の一人にして、ピエロのイメージを一変させた殺人者として知られる。

ゲイシーのファーストネームの由来は、1930年代からアメリカ西部劇で活躍した俳優、ジョン・ウェインとされていますが、あまりにも凄惨な事件だったためジョン・ウェインの名前が出されることは少ないようです。

リフォーム業で財を成したジョン・ゲイシーは地元の民主党支部にも積極的に顔を出し、ピエロのポゴ(Pogo the Clown)に扮して小児病棟や孤児院を慰問していた。

チャリティーイベントやパーティーでこのコスチュームを着ていたことから、後に “キラー・クラウン “と呼ばれる所以となる。

恵まれない子供への慈善活動を熱心に行い、その功績により民主党へ入党して地元の名士となっていた。

スプリングフィールドの地元団体に積極的に参加し、Jaycees(ジェイシーズ)に加入して、1965年にはスプリングフィールド支部の副会長にまで上り詰めた。


この頃、政治に関わっていたことから、アメリカのシークレットサービスの許可を得ていた。

一方で小さな犯罪を繰り返し、最初はティム・マッコイという少年を正当防衛で殺したとされている。

彼の殺人的好奇心はすべて細マッチョ的美少年・美青年に向けられた

目をつけた青少年を会社のバイトという目的で面接を行いに来させたあと、隙をついて自宅に連れ込むと縛り上げて水攻めなどの拷問の果てに、細い首を縄で少しずつ締め上げるなどして殺害。

そして殺した少年たち33名を自宅の庭や家の土台などに埋めるなど異常な行為を繰り返した。自身の同性愛を隠すために殺害に及んだとされる。

しかも凶行中であってもゲイシーは通常の生活を続け、次のターゲットの物色も兼ねて、子供たちの慈善活動などを続けた。

ジョン・ゲイシーが逮捕される直接的なきっかけとなったのは、1978年12月11日、イリノイ州シカゴ近郊の町、デ・プレインで15歳のロバート・ピーストが行方不明となった事件。

15歳のロバート・ピーストが、リフォーム工事のアルバイトに出掛けたまま深夜になっても帰宅しないことから心配した両親は警察に通報。

ロバートをアルバイトに誘い出したのは、この町でリフォーム会社を経営しているジョン・ゲイシーであることはすぐに判明。

シカゴ警察本部は、ゲイシーには少年に対する性犯罪で服役した前科があることを突き止め、事情聴取に向かいます。

ゲイシーは当初、知らぬ存ぜぬで押し通すものの、彼の家に足を踏み入れた刑事は殺人現場でたびたび嗅いだことのある異臭に気づきます。

失踪した青少年の持ち物とされるアクセサリーや身分証明書などが家の一角から発見されたこともあり、ゲイシーは今度は事件の重要参考人として取り調べを受け、犯行を自白、逮捕された。

令状を取って家宅捜索に入った家では床板を剥がすと、遺体の腐敗が進んでいたことから異臭が凄まじく、最終的に28体にも及ぶ腐乱死体が発掘された。

多量の有毒ガスや有害な細菌が検出されるなど、文字通りの地獄絵図となった。

最後の5体を川に棄てたのは、もう床下に埋める場所がなくなってしまったからなのだ。その中にはロバート・ピーストの遺体も含まれていた。

ジョン・ゲイシーは1980年3月13日、死刑を宣告された後も、なんと自分自身が弁護士となり、冤罪を主張して再審請求を求めて裁判を嫌というほど延長させた

裁判中、ゲイシーは自分の刑期を短くするために、役人や検察官に「自分にはジャックという分身のような人格がいて、それが殺人の原因だ」と言い始めた。

精神鑑定の結果、この主張は虚偽であることが証明されました。

その後、死刑執行直前の死刑囚のインタビューで、ゲイシーは自分が34番目の犠牲者であり、自分は無実で、殺人事件とその後の埋葬には何の関係もないと主張した。

刑務所の中にながらTVのインタビューなどにも進んで出演するなど、自身の犯した罪については反省するそぶりはまるで見せません。

それどころか『どれほど少年の殺害が面白いか』という自説を雄弁に垂れまくっていた(当然世論はそれに容赦することはなく、彼の死刑執行を求める声が殆どであったが)。

そうした異常な胆力を持つ犯罪者だったため、精神学者や各分野の研究者の興味を惹き、様々な論文が書かれた。

ところが、ジェイソン・モスという一人の少年との出会いがジョン・ゲイシーに罪を認めさせる決定打となった。

ジェイソン・モスは凶悪犯罪を犯した罪人の心理・精神鑑定に強い関心を抱き、FBIの精神鑑定士を夢見ていた。

当時世間を騒がせた数々の凶悪犯と文通するという趣味を持ち、もちろんジョン・ゲイシーとも交流を持つようになります。

二人は互いに手紙を送り、電話で話をするほどの仲に発展すると、ジョン・ゲイシーは、言葉巧みにジェイソンを自らが収監されている刑務所へ呼び出す

更には、模範囚だった自分の評判に付け込み、仕切り板も看守もなしに二人きりで対面するという、本来であれば刑務所内でのルールに反している方式での面会を取り付けさせた(その後、看守がジョンより密かに賄賂を受け取っていたことが発覚している)。

そして監視人がいなくなったところで、ジョン・ゲイシーはジェイソンを防犯カメラの映らない空間に誘い込み、凌辱しようとした

偶然通りかかった看守に間一髪で取り押さえられ、事件は未遂に終わった。

それまでのジョンは「自分は多重人格である」と主張したり、冤罪を訴えてはのらりくらりと刑罰を引き延ばしていたが、この一件によって殺意や責任能力が認められる決定打になる

これまでの再審請求も全て取り消された。

1994年5月10日に薬物注射により処刑された。

その際に手違いが生じたのか、通常ならば5分ですむ処置が、窒息するまで意識を失わず30分以上かかったため、ジョンは壮絶に苦しみながら死んでいった。享年52歳。

この件について担当した検察官のウィリアム・カンクルは

「被害者の多くはもっと苦しみながら死んだのだ。これでもヤツには不足なぐらいだ」

とコメントしたという。

しかし最後まで冤罪を主張し続け、死に際まで自分の犯した罪を認めることはしなかったという。

ジョン・ゲイシーの生い立ち

ジョン・ゲイシーはポーランドからの移民の血を継ぐ一家に生まれ、ゲイシーは、自分を「シシー」と呼ぶアルコール依存症の父親と、受動的な母親に育てられた。

心臓に疾患のある病弱な子供時代に、虐待気質のある厳格な父親(ジョン・スタンリー・ゲイシー)に虐待・奴隷労働の責め苦を受けていた経緯から、非常に歪んだ権勢欲のある人間に育つ。

4つの高校に通った後、ゲイシーは高校3年生を終える前に退学し、家族との連絡を絶って西へ向かった。

ネバダ州ラスベガスで金欠になったゲイシーは、年齢を偽って21歳以上のパーム・モルチュリー・メモリアル・パークの救急車の運転手の仕事に応募した。

真実を知ったスタッフは、運転手としての仕事を打ち切ったが、代わりに遺体や材料を病院から葬儀場に運ぶ安置所アシスタントの仕事を紹介した。

ゲイシーは、新しい給料では宿代が払えないので、夜は施設内で寝ることも許された。

ゲイシーはここで、遺体がどのように洗浄され、処理され、防腐処理されているかを見せられた。夜、皆が帰ると、彼は引き出しを出して遺体を調べ、話しかけ、服を脱がせ、棺の横に服をきれいに畳んだ。

ある日、所長が不審に思って警察に通報するまで、この状態が続いた。ゲイシーは犯人として特定されなかったものの、シカゴへの帰り道のためにお金を貯め始め、3ヵ月後には辞めてしまった。

高校には戻らず、1963年にノースウェスタン・ビジネス・カレッジに入学し、卒業しました。

卒業後すぐにシューズ販売を手掛ける会社に就職すると抜群の営業成績を上げるようになり管理職研修生となる

1964年にはイリノイ州のスプリングフィールドに転勤となり、同僚のマーリン・マイヤーズと1964年9月に結婚した。

彼女の父親は地元ではかなり成功した実業家で、ゲイシーはケンタッキー・フライドチキンのフランチャイズ店の経営を任せられた。

青年商工会議所でも積極的に活動し、1男1女にも恵まれ、あんなに否定的だった実の父も彼のことを認め始めた。

なにもかもが順風満帆かに思われたが、ゲイシーは少年に性行為を強要した容疑で逮捕されてしまう。

ゲイシーは18歳の時に交際していたガールフレンドと初体験中、小さい頃から悩まされていた癲癇(てんかん)の発作を起こして気を失ってしまう。

それ以来、彼は女性に対してある種の恐怖心を抱くようになり、酔った勢いで同僚と男色関係を結んだことが、その後の事件へと繋がっていきます。

タイミングも悪く、ケンタッキー・フライドチキン店長になっていたゲイシーは、アルバイトの少年たちに常習的に手を出すようになっていたのだ。

この件でゲイシーは、妻子をはじめ、今まで積み上げてきたものを何もかも失った。彼に一目置くようになった父親も、失意のうちに死亡した。

1970年に釈放された後、仮釈放中に再び性的暴行で逮捕されたが、後に告訴は取り下げられた。

その後、シカゴ郊外に移り住み、デ・プレインでリフォーム業を始めると、靴のセールスマンとして鳴らした腕前は健在で、会社は順調に売り上げを伸ばして行った。

1972年6月にはハイスクール時代からの知り合いのキャロル・ホフと再婚し、第2の人生は順風満帆かに思われた。

ところが、キャロルとの結婚の7ケ月前に、彼は既に最初の殺人を犯していたのだ。そして、1976年3月に離婚してからは、毎月のように殺し始めた。時には1日に2人殺すこともあったようです。

ジョン・ゲイシー(ピエロ「キラー・クラウン」)の絵をジョニーデップも購入

ジョン・ゲイシーが獄中で描いたピエロの絵画はマニアには大変な人気があり、展示会が開かれたり、高値で取引されている。

著名人では俳優のジョニー・デップが購入して所有していることが知られていますが、結局はその絵を売却してしまったようです。

そもそもジョニー・デップがジョン・ゲイシーの絵を購入しようと思ったきっかけは、「道化恐怖症」を克服することが目的だったようです。

あえて身近にピエロのグッズなどを置いていたそうですが、ジョン・ゲイシーの絵画がもつ暗い雰囲気に耐えることができなかったとみられます。

「道化恐怖症」はピエロを怖いと感じるもので、米国では7人に1人の確率で存在するともいわれます。

欧米はサーカスが盛んで、幼年期に見たピエロの姿がトラウマとなり、何を考えているのかわからない不気味な表情に、危害を加えられるという意識につながっているとされます

ちなみに、アメリカには「I HATE CLOWNS」という反ピエロ団体が存在し、ピエロの活動に反対しているようだ。

ジョン・ゲイシーのピエロ「キラー・クラウン」)はペニーワイズのモデル

ピエロがメインで登場する映画と言えば2019年に公開された『ジョーカー』や2017年にリメイクされた『IT / イット 〝それ〟が見えたら、終わり。』、2015年に公開された『クラウン』などがあります。

いずれもピエロが異常性に満ちていく恐ろしさを描いていて、道化師としてのおもしろさやおかしさは見られない。

特に1990年に上映された、スティーブン・キングの同名小説が原作のホラー映画「IT / イット」では、ピエロの姿をした悪魔・ペニーワイズが登場しますが、ジョン・ゲイシーがモデルではと言われています。

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