執権と得宗の違いは?北条の得宗専制政治とは?

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鎌倉時代の幕府では執権の北条氏が実権を握り、政治を支配していましたが、執権とよく似た言葉として得宗があります。

北条貞時は執権というより得宗として権力を掌握したようですが、執権と得宗の違いは?

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執権と得宗の違いは?北条の得宗専制政治とは?

執権とは、鎌倉殿(≒将軍)を補佐するために設けられた幕府の役職です。

得崇とは鎌倉幕府の2代目執権となった北条義時の出家後の別名(法名)。

そこから、北条家の嫡流・義時の子孫の家を「得宗家」もしくは「得崇」と言うようになります。幕府の実質上トップは執権ですが、一族の長は得宗なのです。

前者は幕府のれっきとした公職。後者は北条氏の私的な名号。こんな違いがあります。

得宗が北条家の本家であり、「得宗家」の当主がすなわち家督相続者、北条氏全体の惣領です。この地位(についている人物)を「得宗」と通称したわけです。

義時の子・泰時(3代執権)、その孫・時頼(5代)、その子・時宗(8代)、その子・貞時(9代)、その子・高時(14代)は得崇となります。

「得宗」というのは、鎌倉幕府の職制ではない、北条氏の内内の地位ではあるものの、教科書に載るほど大切なのは、北条氏の惣領イコール「執権 」、というわけではない、という、少々込み入った仕組みが、鎌倉時代の半ばから出来上がったからです。

北条氏が鎌倉幕府に並みいる有力氏族の1つに過ぎず、幕府をコントロールできる数々の役職を独占してなかった頃、得宗は執権職に就任する事で幕府の政治を切り盛りする正当な権限を手に入れていました。

得宗自体の権力がさほど強くなかったため、鎌倉殿の権威とその補佐役として与えられていた職権を利用する必要があったのです。

しかし、それは鎌倉殿に由来する権力であるとともに、他の有力氏族とのバランスの上に成り立つ、不安定な権力でした。

しかし北条氏が他家を制圧して要職を占有し、幕府随一の覇権氏族になると、得宗が執権職に就任する必要性は薄れてきました。

要職に配置された北条の者達を得宗が家督として指導すればよいからです。

幕府のお偉方が身内ばかりなので、身内を仕切る事が幕府を仕切る事とイコールになったのです。

鎌倉の御家人たちのあいだの競争に北条義時が勝って、以後、執権の地位を北条氏が独占しますが、執権の職を義時の直系子孫で代々世襲するというのは不可能です。

兄弟、叔父甥、分家のあいだで執権は持ち回りされるようになるのは、むしろ普通の状態です。

義時の直系子孫「得宗」は、北条家の惣領という「身分」です。いっぽう、執権とは「職務」の名前です。

執権・時頼が大病を患ったさい、嫡子の時宗がまだ幼かったので、執権の地位には傍系の北条氏が就任します。

時頼はやがて回復しますが、執権職に戻ることはせず、いわば「院政」「大御所」のような形で幕府政治を操りました。この時頼の地位が「得宗」と呼ばれるようになります。

こうして執権の職権を借りずに、得宗が得宗であるがゆえに幕府の政治を専断できるようになった状態を「得宗専制」と言います。

得宗が執権を勤められないときは一族の誰かが代わりに執権となり、得宗が成長すれば当然のように職務を返す、さらに執権を分家に譲ったあとも「得宗」として権力を握り続ける、というシステムができていきます。

この体制は北条時頼の時代に礎が築かれ、時宗の時代に発展して、貞時のときに確立したと言っていいです。

しかし貞時の施政期間の末期になると、「御内人」とか「得宗被官」と呼ばれる得宗の家臣たちが政治を支配しはじめ、得宗自身や北条氏庶家は実権を失っていきました…。

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